緑色の犯罪


 白樺の林、小松の林はいつかまばらな名もない雑木の林に変って、一面の草原となり、所々の草叢くさむらには萩の花がホロロと散り、桔梗ききよう撫子なでしこの花が咲き乱れ、その間を爪先上りの小路はどこまでも続き、行手のに山峡やまあいは濃い霧が立ち籠めていました。雪解の水なのでしょうが、昨日の雨に勢を増して、浅瀬ながらにも音もなく滔々とうとうと流れて、幾度か歩いて行く小路を横切りましたが、それには朽ちかかった板にしても、とにかく人の渡れるように架けてあるのが、心細くもいつか人が歩いた道である事を示していました。昔の私なら画趣があると云って、スケッチブツクを開いたでしょう。今の私はそれどころではありません。

 親切なFホテルの人達に気遣きづかわしげに見送られて、その玄関を出てからもう五時間近く歩いているでしょう。Fホテルのある所が既に三千余尺の富士見高原の中心地ですから、それからなだらかな勾配ながらも、上り一方でしたから、今はもう五千尺近い所に登ったでしょう。八月の初めと云うのに、この辺りはすっかり秋景色でした。 一万尺近いいくつかの峯を包含して、雄々しく聳えている八ケ嶽は八方にそのなだらかな裾野を引いていますので、どの麓からでも登山路はありますが、私の選んだのは最も人の登らない路の一つで、しかも或る目的のために途中から登山路ではない傍路わきみちに這入りましたから、山番や樵夫きこりにさえ会いません。折からの薄曇りの空合そらあいは正午と云うのに夕暮を思わせるような陰鬱さです。深山の真昼の静けさ、只一人歩いて行く私には、山の霊気が私の魂に何事かを囁きかけるように思われました。

 私は人に会わないと云う事を覚悟しながらも、風のためか、それとも野獣でも往来するのか、時々草叢がカサコソと音がする度に、もしや人かとハッと胸をどよめかすのでした。

 と云うのは私が必ずしも人を恐れるのではないのです。もしこんな所で私の姿を見る人があったら、その人はどんなに驚き恐れるだろうと云う事を心配したのでした。

 どんな深山で出合ママっても、その人が樵夫きこりか山番か、とにかく山の人らしい風をしているなら、又は登山服で身を固めて、リゥママックサックを凛々りりしく背負っていたら、誰も驚きはしないでしょう。しかし、滅多に人の往来ゆききしない山奥で、よれよれの浴衣ゆかたを一枚着て、顔色蒼ざめ、髭をしょぼしょぼ生やした痩せこけた青年に出会ったら、誰でもきっと気味の悪い思いをする事でしょう。今山又山の路らしい路もない所を歩いている私の姿こそ、まさにそれなのです。

 Fホテルの人達も私がこうして山の中に分け入ったという事は少しも知らないのです。いつまで経っても私が帰らないので、怪しみながら私の残して置いた古ぼけたバスケットを開けて見て、中に古い新聞の他何物も見出さなかった時に、旅館ホテルの人達はどんなに驚くでしょう。彼等は私が病気療養のためにこの高原地方に来て、朝食後ホンの近所へ散歩に出た事と信じているのです。

 あの親切な旅館の人達を欺いた事は、深く私の良心を咎めます。しかし、過去三年に亙つて、云うべからざる不幸を受けた私、既に自ら死のうと覚悟している私にとっては、そんな事を顧慮している余裕はありませんでした。

 路は迫って来た山に突当って急に険しくなりました。ようやく足をかけるだけの幅の路は九十九つぢら折になって、山腹を這い廻って行きます。私は崩れ落ちる砂と共に滑り出しそうな足を踏みしめながら、喘ぎ喘ぎ登って行きました。

 二三町ほどこうした険しい坂を登り切りますと、路は又元の緩やかな上り路となりました。私の弱った肺と心臓はもうこれ以上の前進を許さないようでした。しかし、私はただ一眼ひとめ目的のものを見て死にたいのです。ただ一眼! 何の理由もないのです。又果して目的のものがそこにあるやら、それさえも確かではないのです。それだのに、私は三年間の獄中生活にただそれのみを思い続けていました。私は憑かれたのです。きっと何者かに憑かれ、呪われているのです。私は何者かの怨霊のために、こんな深山におびき寄せられて、垂死たれじにをするのです。私はそれを信じて疑いません。しかも、私は見ママす見す誘き寄せられる事を知りながら、こんな所に来る事を拒む事が出来ないのです。この山中で死ぬ事を拒む事が出来なかったのです。

 路は大きく曲って山蔭のジメジメとした小暗い所になりましたが、行手の谷間に思いがけなくコンモリとした森が黒い頭を出しました。大分長い間そうした繁った森を見なかったので、それが何だか異常なものに見えて、ハッとしましたが、だんだん近づいて行くうちに、一塊りと見えた森の樹が一本一本分れて見えて来て、その間にふと屋根らしい恰好のものがチラリと眼に這入りました。

 私はドキンとして立止りました。長い間の風雨にさらされてひさしは朽ちのきは傾きペンキは大分剝げ落ちていましたが、確かにその昔緑色だった事を示していました。 ああ緑の家! 三年間獄中に思い悶えていた緑の廃屋あばらや! 私はとうとうそれを探し当てたのでした。



 三年前の夏の夜でした。私は浅草の或る活動写真館で、人いきれに蒸されながらスクリーンに見入っていました。それは医学博士であり同時に文名の高い唐木からき氏の原作にかかる「高原の秋」と云う作品を脚色したもので、映画製作者は特に高原にロケーションをして、撮影したと云うので、かなり評判のものでした。

 そのロケーションに選ばれた所は八ケ嶽山麓の富士見高原でした。原作では八ケ嶽山麓には違いないが、富士見とは反対側の佐久さくの方らしいのですが、映画に特に富士見を選んだのは、唐木博士が日光療法を高唱し、富士見に曰光治療院と云う堂々たる病院を建設して、成功を収めていたので、博士に敬意を表すべく、同地を選んだらしいのです。しかし、こうした事は私の物語に直接関係はありません。只今云う映画面に富士見を中心とする八ヶ嶽の実写があったと云う事が、私に異常な運命を投げかけたのでした。

 映画面に本筋と何等関係なく、ただ山又山の深山の気分を出すために断崖や幽谷の実写が次々に現われましたが、そのうちに路もろくにないような山間に、コンモリとした林に囲まれた西洋館がヒョッコリ写りました。西洋館と云っても粗末な板囲い同様のもので住んでいる人もないようでしたが、私は場所が場所だけに、オヤッと思ったのでした。

 その家は今云う通り本筋には何の関係もないものですから、一瞬間写っただけで直ぐ消えてしまったのですが、何故か私には強い印象を与えました。後に起った事件のために、一層強く印象づけられたには違いないのですが、私はよしその事件がなくっても、きっとこの家の事は一生忘れなかったろうと思われる程、はっきり頭に残りました。その証拠には私はそんな瞬間的に現わママれて消えた間に、その家の入口に立っている曲った自然木の門柱に、文字らしいものの剝げ落ちた跡を見つけ、しかもそのうちの一字が、緑と云う字らしい――もっともこれは後で考えついたのかも知れません――事まで見てとったのでした。私は今でもあの映画を見た何万と云う人達が、どうしてこの家の事を見落していたのかと不思議に思っています。

 とは云うものの、実は私もその映画を見た時には、その家にはホンのちょっと興味を惹かれただけで、直ぐ忘れてしまったのでした。もっとも前に述べた通り、かなり深く脳裏に印象されましたから、折に触れ思い出したには相違ありませんが、その時にはこの家の事が後に自分の運命に大関係を持つなどと云う事は夢にも考えませんでした。

 ところが、私がこの映画の事をハッキリ思い出さなくてはならない日が、案外早く来ました。

 この映画を見てから一月ばかり後の事で、未だ残暑の色の濃い頃でしたが、私は目黒の郊外の淋しい道で、しかも真夜中に不思議な紳士に呼び留められました。この紳士は鳥沢治助と云って、有名な偏執狂で、緑林荘と云う奇怪な邸宅の持主で、私を呼び留めたその夜に、自宅の一室で不可思議な死を遂げたのでした。

 今こそ、私が誰であるか、お分りになった事と存じます。鳥沢の死を巡る奇怪な事件は当時読み倦きる程新聞に出た筈です。私は鳥沢に呼び留められて、彼の家に行ったばかりに、彼を殺したと云う恐ろしい嫌疑をかけられた青年香坂利吉です。不幸な私は容易に嫌疑を晴らす事が出来ませんでした。父もなく母もなく、一箇の放浪児だった私は、ああ云う事情の許に置かれては、疑われるのが当然でした。実際もし隠れた同情者である手弁護士の援助がなかったら、私はとうに絞首台こ上っていたかも知れません。しかし、幸に私は三年間未決監に呻吟した後、ようやく証拠不十分として放免されました

 私の放免されたのは一昨日です。私の放免されると云う記事は、新聞に一二行も出たでしょうか。 三年前にあれ程騒ぎ立てた新聞記者も誰一人私の出獄を迎えるものはありませんでした。もっとも私は少しも彼等の健忘を恨みはしません。いや、かえってコッソリ出獄出来るのを喜びました。他に出迎えるベ親戚友人そんな者は一人もありません。ただ恐れたのは例の同情者である手弁護士の出迎えで、彼も又きっと出迎えると云っていたのでしたが、どうしたか姿を見せませんでした。この事は私にとって誠に好都合でした。私は何者にも妨げられないで出獄出来る事を欲していました。と云うのは私は獄中で死を決していたのです。出獄が出来れば直ぐにこの山中に来て死ぬ決心でした。私はこれと云う理由なしにこの山中のかつて映画面で見た廃屋あばらやの中で死にたかったのでした。私にはこの廃屋を一眼見る他にはこの世に何の慾望も希望もありませんでした。

 両親に棄てられ、世に見棄てられ、健康を失い、家もなく妻子もない私が、何の希望をこの世に持ち得ましょうか。私が死んだとて、誰が悲しみ誰が笑うでしょうか。どこの誰の心に一寸ちよつとの動揺でも与える事が出来ましょうか。

 目的の緑の廃屋は指呼しこのうち見えます。私は進んであの家の中に這入って、従容として死ぬばかりです。



 廃屋の入口は映画面に写し出された通りに、朽ち果てた自然木の門柱が立っていて、門柱には風雨に洗い去られた文字の跡がありました。

 映画「髙原の秋」の撮影監督者がどうして意味なしにこんな所を取り入れたのか。何でもロケーション中の一日の事、何かの工合で撮影が中止になったため、不聊ぶりように苦んだ俳優や助手連はそこここと山の中を歩き廻って、滅多に人の行かない道にまで好奇心を起して行ったのだそうですが、そうした一行の一人がこの家を見つけたので、写真中に加えられる事になったのだと云う事です。私は獄中でこの家の事を思い出して、手弁護上に依頼して、以上の事を聞出し、かつこの家の位置もほぼ知る事が出来たのです。

 門柱に書かれた文字、これが私にとって大問題なのです。私はじっと剥げ落ちた文字の跡を睨みま した。

 門柱には、ああ、矢張私の信じていた通りでした。確かに緑林荘と書かれていたのです。気のせいでしょうか、いえ気の故ではありません。文字は非常に読みにくいのですけれども、緑林荘と書かれていたのに相違ありません。

 緑林荘! この深山の中に半ば崩れ落ちている廃屋の緑林荘と、東京郊外目黒にある、あの宏壮な 緑林荘との間には何か関係があるのでしょうか。私は確かに関係があると信じます。緑林荘などと、 忌わしい、誰もつける事を欲しないような名をつけるものが、あの偏執狂の鳥沢を除いて他にある筈がありません。 私の眼は門柱を睨んだまま、手足はブルブル顫え出しました。私は三年前のあの忌わしい夜、狂人鳥沢に呼び込まれて彼の殺害犯人として捕えられた夜の事を思い出しました。

 ああ、私に彼が狂人であると云う予備知識さえあれば、決して彼の家に足踏あしぶみなどするのではありませんでした。しかし全然彼の事を知らなかった私は、彼の紳士姿を信じ、又は放浪児として、何者の恐るべき事も知らなかった私は、彼の言葉のままに彼の後に従ったのでした。

 返す返すも彼の挙動そぶりに怪しい節のある事を悟らなかったのは私の不幸でした。私がちよっとでも穴山市太郎の変死事件の事を知っていたら、ちよっとでもあの有名な緑の手紙事件を知っていたら、又考えようもあったのです。定った住所も持たず、少しばかり画才のあるのを頼りにして、旅から旅へと漂浪し続けていた私はそうした出来事を知るに由もなく、ヒョッコリと東京に舞い戻って来て間もなくの夜の事で、うかうかと彼の口に乗ったのは、私の不幸ですが、又自ら招ける罪です。詰らぬ事で一生を棒に振った自分の不運と愚を嘲笑するより仕方がありません。



 緑の手紙事件!

 この事件は私こそ東京にいず、旅から旅へと流れていたために、少しも知りませんでしたが、後に起った穴山の変死事件と共に、小学生徒の口にまでのぼった程、東京全市を騒がした事件だったのです。

 久しい以前に幸運の手紙と云うのが世の中を騒がした事があります。それは匿名の手紙で、フランスの一士官から始まったこの幸運の手紙は連鎖を断つ事を許されず、この手紙を受取った者は直ぐここれにならって、九名の知人に幸運の手紙を出さなければならない。しからずんば非常な不幸に見舞われるぞと云う事が書かれているのです。この手紙を受取った人は、心のうちにはその迷信を笑いながらも、結局匿名で九名の知人に幸運の手紙を書かずにいられなくなるのです。それはもし手紙を書かなければ不幸に見舞われると云う強迫観念のためと云うよりも、もし他日不幸に見舞われた時に、この手紙を書かなかったためだと考えられる事が嫌なのです。云いかえれば不幸を追払うためよりも、不幸に会った時はこの手紙を書かなかったためでないと信じたいのです。つまりそうした人々の心の中には他日きっと不幸に襲われる――手紙を書く書かないに係わらず――と云う考えがあるのです。それほどこの世には不幸が充ち満ちているのです。

 そんな詮鑿せんさくはとにかく、幸運の手紙を受取った人達の大部分は手紙に命じてある通り、九名の知人に幸運の手紙を送ったらしいのです。その証拠には幸運の手紙は燎原の火の如く、全国的に拡がりました。警察当局者は公安に害があると云う考えで、躍起となって取締を始め、手紙を出した人は見つけ次第に処罰する規則を作りました。しかし、人々の心の中に喰い入った不幸を予期する観念は、容易に退き去らないと見え中々手紙を出す事は止まないのでした。

 緑の手紙と云うのも恰度これでした。ただ幸運の手紙と違う所は、緑色が幸運をもたらすもとであるから、すべてを緑色に塗れと云うのです。無論最後に連鎖を断たずに知人にこの手紙を送らなければならぬと云う事が書添えてありました。

 緑の手紙は幸運の手紙程流行しませんでした。何故なら幸運の手紙は単に書きさえすれば好いのですから訳はないのですが、緑の手紙の方はすべてを緑色に塗らなければなりませんから、臆劫おつくうでもあり、又費用もかかる事なので、ちょっと手軽に行えなかったのです。しかし、中には手紙の不気味な文句に怯えて、少しでも緑色に塗れば好いと云うので、壁を少し緑色にしたり、ふすまに緑色の紙を張ったりした家がありましたので、警察当局は緑の手紙の取締方を怠りませんでした。

 そのうちに緑林荘の主人あるじの鳥沢治助の事がやかましく噂されるようになりました。

 この鳥沢治助と云うのは実に奇怪な人物です。彼は洋画家なのですが、何でも若い頃に日本を飛び出してヨー口ッパに行ったのですが、パリ辺りでは画をくどころか、殆ど乞食同様の生活をしていたと云います。それがどうして工面したのか、或年のサロンに風景画を一枚出品したのが、非常に評判になり、忽ちその天才を認められて、全欧州の賞讚の的になって、ベルリンではカイゼルに謁見を許されたと云う程でした。彼はその後続々傑作を発表して、いつの間にか大金持となり、意気陽々として故国に錦を着て帰朝したのでした。

 ところが彼はどうしたのか帰朝後は一枚のスケッチすら発表せず、東京郊外の目黒に堂々たる邸宅を作って、その周囲を見上げるような緑葉樹で囲んで、緑林荘と名づけました。一体緑林と云う言葉は支那の故事にると、一種の団隊的窃盗せつとうを意味するので、云わば今の馬賊見たいな者だそうです。彼の友人のうちにはその事を彼に話して、改称を勧めましたが、彼は一向そんな事は気に留めず、改称しようとしませんでした。友人の間では彼が始めからそうした故事のある事を知っていて、わざと緑林荘とつけたのではないかと云われていました。

 盗賊を意味するような文辞を住宅につけて平気でいるような男ですから、彼は万事につけて変っていました。一部の人達の間には彼は狂人であると云う噂が早くも立ちました。彼は滅多に友人達に顔を見せず、広い邸宅に少しばかりの召使と住み、殆ど一室に閉じ籠っていました。まれに人に会う時には、彼は猜疑心に富んだ眼でジロジロと見て、容易に親しみを現わさなかったそうです。

 彼はそうした男でしたから、彼が緑の手紙に依って、急に邸名の内外を緑色に塗り出した時にも、誰一人不審に思うものはありませんでした。彼は屋根の瓦を緑色にしました。壁と云う壁、カーテン、敷物、机、椅子、ありとあらゆるものを緑色に塗りました。彼の家の内外には緑色以外のものは何一つありませんでした。

 彼を知っている人は、彼の狂気きちがい染みた性質から、彼が緑の手紙によって、緑色が幸福を齎らすものと信じて、そう云う風にしたと云う事を疑いませんでした。彼の奇怪な生活振りに多少の調査を試みた警察当局者も、最初はそう信じていたようです。しかし、後には彼が緑の手紙によって、そうしたのではなくて、彼が何かの事からふと緑色が幸福を齎らすものと思い込み、自ら実行すると共に、彼自身が緑の手紙を書き送った最初の人間ではないかと疑うようになりました。彼が真実緑色を信仰したのか、又自分の奇行を胡麻化すために、世の中に緑の手紙を流布させたのか、その点は明瞭はつきりしませんが、彼が緑の手紙の発案者ではないかと云う考えは、相当根拠があるようです。当局者もその点について、かなり苦心して探査したようでしたが、確実な証拠を押える事が出来なかったらしいのです。

 さて、鳥沢が緑林荘の内外を緑色に塗りつぶしたと云う事がパッと評判になり、緑の手紙があなどり難い潜勢力で流行しだし、そこここにはポツポツと鳥沢にならって、緑色に家の内外を塗る者が現われて、警察当局者がその取締方に腐心している時に、突如として緑林荘内で、穴山市太郎の変死事件が起ったのでした。



 穴山事件の前の揷話エピソードとして、富士丸事件があります。

 富士丸と云うのは鳥沢が金に飽かして作った軽快な遊覧船で、彼は矢張緑が幸福の源であると云う見地から、富士丸をすっかり緑色に塗り、船室ケビンの外も内も、食卓テーブルも椅子もボートも小汽船ランチも緑色でないものはありませんでした。彼はこの緑色の汽船富士丸を東京湾に浮べ、彼の名声と全力を尽して、朝野の貴顕紳士を招いて、一大盛宴を張りました。

 その当時は鳥沢が新帰朝の天才画家としての名声未だ衰えない時で、多少彼の性行の常軌を逸している事は噂されていましたけれども、彼の招きに応じて富士丸の甲板に集った人々のうちには、著名の名士の数も少くないようでした。それに、例の緑の手紙がようやく流行しかけていた時でしたし、彼が全くその手紙のために、富士丸を緑色で固めたと信ぜられていましたので、新聞は盛んに富士丸の事を書き立てましたので、いよいよ富士丸が東京湾頭に緑の船体を浮べて、数多あまたの名士を乗せて遊弋すると云う時には、その盛況を見ようとする見物で陸上は真黒に埋められまして、観艦式以外には見られない雑沓だったと云います。

 その時には別段変った事はありませんでした。ただ燕尾服によそおいを凝らした鳥沢が、矮軀短少の胸をらせて、外国人じみた顔に熱誠を込めて、緑色が幸福の使者である事を説き、世界に一つあって二つなき富士の壮厳と、緑色の神秘を解き得た者こそ、真の幸福を得るものであると述べた時に、来寶一同は彼の不可解な支離滅裂な議論に思わず彼の顔を見つめて、彼が狂気していると云う噂を思い起し、ひそかにうなずいたと云う事でした。

 富士丸船上の宴会があってから三月ばかり後の事でした。鳥沢は又々彼の緑林荘内の庭園で、一大園遊会を催しました。その頃彼は何を感じたのか、国を富強ならしめる源は電気の利用にあると云って、庭の一隅に電気研究所を建て、終日パチパチと火花の音をさせて、しきりに研究に耽っていました。彼に電気の知識があったかどうか、甚だ疑問ですが、彼のような偏執狂は、何事かに熱中すると、万事を放擲してその事にのみ没頭するのが常で、正規の手続きをして建てたのですし、名義だけでも高電圧を扱う電気の主任技術者も置いてありましたので、警察でもみだりに研究を差止める訳には行かなかったのです。彼は金にまかせて、書籍や機械類を購入して、昼夜の別なく研究に没頭していました。彼の研究の目的については誰一人知ったものはありませんでした。

 そうした研究の最中に、彼は突如として園遊会の開催を思い立ったのです。思い立ったら最後、どうしてもやらなければ気がすまぬ彼です。彼は天才的な頭をひらめかして、邸内の設備を整えました。そうして例によって朝野の名士に招待状を出したのです。

 この時には彼の頭が大分怪しいと云う事が一般に分っていましたので、前回の富士丸の時程の名士は集りませんでした。しかし、何を云っても金の世の中で、ただでそう云う堂々とした園遊会に招かれるのは悪い気持はしないと見えて、矢張り陸続りくぞくとして詰めかける美々しく着飾った男女の群は相当あったと云う事です。

 邸の内外は無論緑色一色で、他の色は何にもありませんでした。緑色の芝生で毛氈もうせんのように敷きつめられた庭には、緑の葉をつけて、幹を緑色に塗られた樹木が、そこかしこに立並び、緑色の幕を張り廻した中には、緑色の模擬店が並び、接待の女達は着物も襟も帯も残らず緑色でした。食器も、甚しい事には、食物さえも緑色に塗られていました。酒はとにかくとして、お茶さえも濃い緑色だったのには、呑むのに気味が悪かったと云います。

 折から晩秋の空は一点の雲もなく晴れ亘って、一面の薄緑色で、会場は今云う通り見る限り緑色ですから、その間を歩む来賓達は一種異様な錯覚を起して、人工的に作られた舞台の上を歩いているような気がして、お互の会話も何となくわざとらしく、現実と遠く離れたような気がしたと云います。いずれもが口には鳥沢の天才的な技巧を賞めながら、心の中では云い合したように、薄気味悪く感じていたのでした。

 しかし、別に気味の悪いような事件も起らず、午後四時過ぎとなり、そろそろ帰途につく人も出来て園遊会も無事に終了すると思われましたが、その時に突如として、不祥事が起りました。それは鳥沢のふるい友人で招かれた客の一人だった穴山市太郎が、研究のために引入れてあった邸内の高圧線に触れて、黒焦げになって死んだのでした。

 園遊会の邸内にそんな危険な高圧線を引入れて置いた事が直ぐ非難されました。客の中には明らさまに今日一日だけでも何故電流を断って置かなかったかと咎めた人がありました。しかし、鳥沢の弁解した所に依ると、彼の実験は数ケ月間連続せしめなければならないので、どうしても中断する事が出来ず、もしいて中断すると、今まで数ケ月間続けて来た努力が全くふいになってしまうと云うのでした。で、どうしても中断する事が出来ないので、彼は高圧線に触れる事の危険を防止するために、最善の努力を払ったとこう弁解しました。

 全く彼の云った事はすべての客が首肯しなければなりませんでした。何故なら、鳥沢は無論電注は申すに及ばす緑色に塗りましたが、腕木と碍子がいしは真赤に塗ることを忘れませんでした。尚この上に緑色の板を電柱に打つけて、それに赤字で「危険」と書いて、触れそうな恐れのある箇所には、幾枚となくつけて置いたのです。無論こうした事は取締規則にある事で、しなくてはならぬ事ではありますが、鳥沢はそうする事が非常に辛かったと云うのです。と云うのは彼は一物残らず緑色としたかったので、高圧電気の危険を示すために、殊に人目を惹き易い赤字を使わねばならなかったのは、実に苦痛だったと云うのです。

 誰も知っている通り、赤は緑の余色であるから、緑に塗った板に赤字で書いたものは一際目立つものです。すべてを緑色にしてしまおうと云う鳥沢にとって、そうした標示は確かに大きな犠牲だったに相違ありません。実際その日居合した来賓達は、その刺々とげとげしい眼を射るような赤字に、思わずヒヤリとしたそうです。その殺風景さを非難する人と、主人の行届いた注意振りを賞める人と、相半ばしたと云う事でした。

 それ程際立った注意があったにも拘わらず、高圧線に触れて、惨死した穴山と云うのは、前にもちょっと述べた通り、鳥沢の旧い友人で、鳥沢がヨーロッパで乞食同様の放浪生活を送っていた時代から親しく交際していたらしく、穴山自身も矢張画家だと云う事でしたが、誰一人彼の描いた画を見た者はありませんでした。彼は鳥沢の家に最も多く出入した友人の一人で、噂では彼の生活費は、ことごとく鳥沢の手から出るのだと云う事でした。何でも、彼は欧洲で鳥沢が窮乏を極めていた時に、相当援助したらしく、それを恩に着て鳥沢が彼の面倒を見ているのだと云う事でした。

 穴山が惨死したと聞いた時の鳥沢の悲しみは並居る人の涙を誘わずには置かない程、激しいものでした。彼は穴山が高圧線に触れたと知ると、園遊会の最中にすら送電を断たないで、研究を続けていた数ケ月間連続の努力の結晶を、幣履へいりの如く棄てて、忽ちスイッチを切り、電流を断ちました。それから穴山の変り果てた無慙むざんな死体にすがりついて、

「ああ、僕の真の友達が死んだ。たった一人の心をうちあけた友達が死んだ」

と繰り返し叫びながら、慟哭どうこくしました。

 穴山の盛大な葬儀が鳥沢の手によって行われたのは、それから間もなくの事でした。


 緑の手紙事件と穴山変死事件とは、再々申す通り、私が一管の画筆を携えて、旅から旅へと漂浪している時代の出来事で、いずれも後に聞いて知った事でしたから、今までの記述は記録に基いたので、私は割りに冷静に事実だけを述べる事が出来ました。しかし、富士丸事件以来、鳥沢には世人は非常な好奇心を持っていましたから、以上の二つの事件が相次いで起った時には、大新聞すら興奮して、煽情的な記事を掲げましたので、当時の世人の興奮の仕方は筆紙には尽す事は到底出来ない有様でした。ですから、事実は私の拙ない云い表わし以上の騒ぎであった事は明かママです。

 さて私はいよいよあの当夜の事を書かねばならぬ事となりました。この事は私がまざまざと経験した事であり、私に致命的な打擊を与えた事件ですから、こうして書いていても、心が乱れ手が顫えます。私は到底興奮せずに冷静に記述する事は出来ません。

 三年前の九月半頃の真夜中でした。当時私は窮乏のドン底にいまして、二三日来食物らしいものを口にしないで、あちこちで野宿を続けていました。当日は目黒の奥に知人が住んでいたので、そこを訪ねて何程かの合力に与かろうとしたのでしたが、生憎彼は留守でどうする事も出来ませんでした。それで当ママもなくブラブラと省線の目黒駅を目指して歩き続けたのですが、未だ駅までには一里足らず歩かねばならないと云う所で、真夜中になってしまったのです。目黒の奥は最近非常に開けましたが、それでも駅からこれだけの距離があると、家らしいものもなく、一 面の野原です。いわんや三年前には狐や狸が枯すすきの間を走り廻っていると云う有様で、無論誰一人往来するものはありません。四日か五日頃の月で、宵に姿を見せたきり、西の野の果に没してしまいましたから、中にはキラキラと数限りない星がキラめくばかりで、足許さえよく分らない暗さでした。

 私は別に淋しいとは思いませんし、馴れッ子になっていましたから、心細いとも思いませんでしたが、ただ辛かったのは胃の底の方がズキズキと痛む空腹です。胃が空っぽになると頭も空っぽになるものです。私はまとまった何事をも考える余裕もなく、ただ取り留めのない現われては直ぐ消える妄想を思い浮べながら、反射的に両足を動かしておりました。

 その時不意に眼前めのまえに人影が現われたのです。考えて見るとその人影は大分前から私の方に近づきつつあったのです。しかし、暗いのと、私の眼が空腹と疲労のためにくらんでいたので、直ぐ眼の前に見えるまで気がつかなかったらしいのです。その証拠には先方さきではとうに私の姿を認めていたと見えて、格別驚いた様子もなく、じっと私の方をすかして見ていましたが、

「もしもし」と呼び留めました。

 私は不意に暗闇から眼の前に現われた人影から、声をかけられてハッとしましたが、よく眼を据えて見ると、小柄ながらも紳士風の男なので、安心しながら返辞ママをしました。

 そうすると、彼は直ぐに訊きました。

「君は、これからどこへ行くのですか」

「別にどこと云ってあてはないのです」

「ふふん、この真夜中に当なしにこんな所を歩いているのはどう云う訳かね」

「宿なしなんですよ。実は友達の所に泊めて貰おうと思って出かけたんですがね、生憎戸が締っていたものですから」

「では君はそうして夜中歩いていようと云うのかね」「そうでもありませんが、何しろ腹が減って耐らないので、里の方へ出て夜ママ台店に首でも突込もうと思っているのです」

 口から出委でまかせの返辞をしたのですが、腹の空いている時は正直なもので、食物の事が直ぐ口に出るものです。

「金は持ってるのかね」

 随分失礼な質問でしたが、私は格別腹も立ちませんでした。

「金なぞは一銭だって持っていませんよ」

「じゃ、どうして屋台店の物が食える?」

ひつぱたかれて拘留は覚悟なんです。こう腹が減ってはやり切れませんから」

「君の職業は何だね」

「まあ、画描きですね」

「ふむ」

 紳士は何と思ったか溜息をついて、暫く考えていましたが、

「君は僕が探していた青年だ。どうだね、これから僕のうちへ来ないか」

「喜んで行きますね。食物を食べさせてくれて、寝かしてくれるうちなら、どんな所へでも行きますよ」

「ふむ」紳士は満足そうにうなずきました。

「いよいよ君は僕が捜し求めていた青年だ。やって来給え」

 こう云う訳で私は紳士に伴われて彼の家に行く事になったのです。

 この紳士は云うまでもなく鳥沢治助でした。

 前にも云った通り、私がこの人物に対して、多少でも予備知識があれば、大いに警戒するのでしたが、ちょっと会った所では気狂きちがいらしい所もなく、それに私のような浮浪人はどこへ行っても損をする気遣いがないので、恐れると云う事は知りません。温い食物と寝床とを与えてくれると云うので、ホクホク喜びながらついて行ったのです。寸善尺魔と云いますが、人の運命と云うものははかないものです。

 彼について二十分も歩いたでしょうか、小高い丘の中腹の林に取り囲まれた洋館に案内されましたが、これこそ有名な緑林荘で、私は夜目にもその宏壮なのに驚いてしまいました。

 ところが、その堂々とした邸宅の中はガランとして、一向人気がないのです。のみならず、どの部屋も、すっかり緑色なのです。私は何となく薄気味悪くなって来ましたが、今更逡巡しりごみもならず、それに温い食物の誘惑があるので、度胸を据えて彼の案内のままについて行きました。

 彼はやがて彼の居間にしているらしいやはり緑以外の色のない広間に私を通しました。そして戸棚の中から洋酒の瓶とパンとソーセージを出し私の前に並べました。戸棚も食器も洋酒の瓶もことごとく緑色でした。

あつたか珈琲コーヒーを入れる間、こいつをやり給え」

 私は挨拶の言葉も出ませんでした。いきなり前に置かれたパンを摑むと、まるで消えてくなるのを恐れでもするように、急いで口の中に押し込み、嚙むまでもなく呑み込んでしまいました。

 珈琲沸しに水を注ぎながらその様子を見ていた彼は、嬉しそうに眼を輝やかしましたが、やがて感慨無量と云う風で、「うむ、腹の減った時に食物にありついたと云うものは嬉しいものだなあ。僕も昔君と同じ経験があるよ」

「あなたが――まさか」

 私は二つ目のパンを咽喉に引かけて眼を白黒させながら云いました。「ところが全くなんだ」彼は珈琲を入れる手を休めて、真顔になって云いました。「僕は君のような経験があるんだよ。もっとも日本じゃない――独逸ドイツなんだ、グリウネワルドと云う地方でね、グリウネワルドと云うのは緑の森と云う意味でね、森林地方なのだよ。そこでね、僕は飢えてね、時候は今と正反対の冬の最中だった。向うの冬は寒いからね、飢えの他にもう少しで凍える所だった。時刻は矢張今日のように真夜中だったが、一人の奇妙な老人に呼び留められてね、森の中の家に連れて行かれて――」

 ここで彼は急にぷっつりロをつぐみました。そうして愕然としたと云う風に四辺あたりを見廻しましたが、怯えた眼を私に向けました。

「君、何か物音を聞かなかったかね」

「いいえ、別に」

「そうか、それでは気のせいだ。僕はグリウネワルドの話をすると、いつでも妙な恐怖に襲われるのでね、きっと気の故だ。もうこの話は止そう」

 彼がそう云って再び恐ろしそうに四辺を見廻した時に、遠くの部屋でカタリと鼠の騒ぐような音がしました。彼は飛上りました。

 彼は真蒼な顔をして暫く無言でいましたが、やがて、勢なく立上りました。

「君、ちょっと失敬するよ。変な物音がしたから、見廻って来る」

 そう云って彼は部屋の外に出て行きました。

 彼の態度はかなり変でしたけれども、私は格別気にも留めず、彼の出て行ったのを幸いに、殆ど夢中で食物を口に運び入れました。

 私が最後のソーセージの一片を頰張っている所へ、彼が帰って来ました。

 彼は何となくソワソワとしていました。顔色も前よりズッと蒼ざめて、元気がなくなっていました。

「何でもなかったよ」彼は私の顔を見ると、弁解するように云いましたが、直ぐ言葉をついで、

「すっかり食べてしまったね。も少し御馳走をしようと思ったが急に用が出来てね。すまないが、今夜はそれで辛抱して寝てくれ給え。ところでね」

 彼はここで言葉を切って、しげしげと私の顔を見ました。覗き込んだ彼の眼差まなざしには、何となく異様な光がありました。

 私はぞっとして思わず一足後へ退りました。

「ところでね」彼は相変らずじっと私を眺めながら、「君は緑色が幸福な色である事を知っているかね、君は黄色と青色の混合である緑色が幸福を齎らす事を信じなければならぬよ。それから富士山の神秘を探るんだね。いいかね、富士山だよ、甲斐と駿河の境にある富士だよ」

 私は彼の真顔を正視する事が出来ませんでした。ああ、今ようやく私は知ったのです。彼は狂人でした。狂人でなくて、誰がこんな訳の分らぬ言葉を真面目な顔をして、述べるでしょうか。私はたじたじと後に退すさりました。

 彼はこれだけの事を云い終ると、悲しげな表情をして、最後の一瞥を私に与えると、そのまま無言で部屋を出て行きました。 私は暫く茫然として突立っていました。何と云う奇怪な私の立場でしょうか。今まではママ一度も会った事のない紳士に、このガランとした大きな家に連れ込まれて、食物を与えられた挙句に、謎のような一言と共に、私はこの一室に置去られたのです。私はどうしたら好いのでしょうか。

 私は直ぐ彼の後を追おうかと思いました。しかし、彼の云った言葉のうちに「今夜はそれで辛抱して寝てくれ給え」と云った事を思出しました。事実、十分の空腹を充たす事の出来た私は快よい睡眠がむさぼりたかったのです。私は部屋の中を見廻して、片隅に寝台ベツドのあるのを見出し、何はとまれ、そこで眠ろうと決心しました。

 寝台ベツドに横になりますと、フカフカとして実に気持が好かったのでしたけれども、中々寝つかれないのです。どうかして早く寝ようと思えば思う程、益々眼が冴えるのでした。虫が知らせたとでも云うのでしょうか、自分の奇怪な位置にいる事が、気にかかって耐らないのです。

 そのうちに、家のどこかの隅でバサッと云う異様な音がしました。私は寝台ベツドの上に飛び起きました。

 じっと耳を澄ましましたが、物音は一度聞えたきりで、後はしーんと静まり返っています。私は暫く躊躇した末に、寝台ベツドから下りて、そっと部屋の外に出ました。

 私は恐々こわごわ音のした部屋に進んで行きました。燈火あかりだけついてガランとした大きな部屋が、いくつも続きましたが、最後にそうした部屋の一つに這入った時に、私はあっと叫んで棒立になりました。部屋は何かの研究室らしく、機械類が立並んでいましたが、一隅の床の上に先刻の紳士がうつ伏せに斃れていました。そうして背中の真中に短刀が突立っているのです。短刀の周囲から赤黒い血が流れ出ていました。私は気を取り直すと急いでその傍に寄り、短刀に手をかけると、うんと力を籠めて抜き取りました。途端に傷口からパッと血潮が飛んで、私はすっかりそれを浴びました。私は突剌っている短刀を抜き取る事が刺されている人間の利益ためだと考えて抜き取ったのですが、(ああ、それは何と云う愚な事だったでしょう!) 彼はもうすっかり縡切こときれていたので何の甲斐もありませんでした。後に裁判官からこの時に足音のようなものを聞かなかったかと訊かれましたが、夢中だった私は一向そう云う事には気がつかなかったのでした。

 私は翌朝警官に捕えられました。無論私は鳥沢殺害の有力な嫌疑者として、厳重な訊問を受けました。極力抗弁したにも係らず、遂に起訴されて、予審も有罪と決し公判に廻されました。取調べの結果短刀の切尖きつさきには毒薬が塗られていました。私の浴びた血が、果して突刺った短刀を抜き去った時のものかどうかを決定するのに三年間かかりました。私は前にも述べた通り、手弁護士の援助がなかったら、死刑に処せられていたかも知れません。ちょっとつけ加えますが、鳥沢は生前あれだけ豪奢を極めたにも拘らず、死後調べると財産らしいものは緑林荘の他に何にもありませんでした。世人がそれを非常に不審がったのは無理のない事でした。



 私は度々云った通り、生れながらのボへミヤンで、家もなく親もなく、諸国を旅から旅へと放浪して歩いて、師を取って覚えたのではない我流の画を描き、ようやく口を糊して、時には饑餓に迫る事もありましたが、割に快活な性質を失わず、希望も棄てなかったのでしたが、恐ろしい殺人の冤罪を着て、三年間未決監に呻吟している間に、すっかり気質が変りました。今までとは打って変って陰鬱になり、猜疑心が強くなり、希望を全然失ってしまいました。証拠不十分で出獄する事になっても、格別嬉しいと思わず、出獄のその日に飄然と八ケ嶽山中に向って出発して、かねて覚悟していたように山中の廃屋あばらやで自殺しようと云う気になりました。

 何故私がこの廃屋を死場所とめたかと云うと、私は偶然「高原の秋」の映画面からこの廃屋を発見して、鳥沢の緑林荘に深い関係があるように思われ、且つ彼が最後に残して行った謎のような奇怪な言葉のうちにも、何となくこの緑の廃屋を暗示するものがあるように思われたので、息のあるうちに一眼この廃屋を見て、幸に滅多に人の来ない山中でもあるし、ここで静かに命を断とうと決心したのです。そうして今ここに私はその門柱を仰いで、緑林荘の三文字の微かな跡を見出し、思いを三年の昔にせて、無量の感慨に耽ったのでした。

 もう午後二時を過ぎたでしょう。曇りがちな空は、深山のしかも立籠たちこめた木下闇このしたやみに、すっかり夕暮を思わせています。遙か向うの谷合からは白い霧が湧き出て、青々とした山肌を見え隠れさせています。双のたもとはいつかしとどに濡れていました。いつまでも猶予してはいられません。私は薄暗い廃屋の中に、洞穴ほらあなの中にでも突き入るような気持で、足を踏み入れました。

 廃屋の中には湿ぽいようなかび臭いような臭いが漂うていました。床も柱も板壁もすっかり朽ち果てて、しずくが滴り落ちるように湿気でジメジメしています。部屋の数は五つ六つありましょうか、奥へ進む程益々暗く、全く岩窟のような感じで、今にも何か異様なものが這い出て来そうで、思わず襟元がゾクゾクします。

 私は家の隅々まで仔細に調べました。柱と云わず壁と云わず緑色のペンキで塗ったらしい跡が十分認められました。私は家の中央と思われる辺の一つの部屋の崩れかかった椅子に腰を掛けて、鳥沢の云った不思議な言葉を考えました。

 緑色は幸福な色である。富士山の神秘を研究せよ。こんな意味の事を彼は私に云いました。彼は確かにこれに似た言葉を、例の遊覧船富士丸で朝野の紳士を前にして云っています。これを聞いた時には彼は全く狂人だと思いましたが、今ここで静かに考えて見ますと、一概に狂人の言葉とは云えない、何か意味がありそうに思えます。私は自殺を決心した人間でありながら、じっと考え込んでしまいました。しかし、矢張こんな譫言たわごとじみた事に意味のある訳はありませんでした。いくら考えて見ても、狂人の言葉が解ける筈はありません。私は急に馬鹿々々しくなってつと立上りました。

 と、この時です。隣りの部屋でミシリと云う音が響きました。

 私ははッとすくみ上りました。死のうと決心していた私でしたけれども、この深山のしかも滅多に人の通わない谷間の廃屋に、他に人がいようとは思っていませんから、この不意の物音には心臓が押し潰される程驚きました。

 ミシリミシリと云う跫音はだんだん近づきます。やがて薄暗い隣りの部屋からニウッと顔を出したのは……

 醜い大きな鼻をつけて普通の顔の二倍もあろうと云う、西洋の妖婆を思わせるような顔を、小柄な胴の上にチョコンとつけて、呪うようにニタニタとした笑顔を向けたのは、ああ誰あろう、私の恩人手龍太弁護士でした。

「あッ! あなたは手さん」

「無事でいたな。間に合うかと心配しながら来たんだが」

「え、え、ではあなたは私がここで死ぬと云う事を承知して追って来たんですか」

「そうとも、――しかし、わしは君が死のうと云うのを強いて止めはせんよ。ただ君に一言云い聞かしたい事があってな。こうしてやって来たのさ」「御親切有難う存じます。ですけれども、私はもう何も聞きたくありません」

「君が聞きたくなくっても、わしはわざわざここまで来たんだから、話さぬ訳には行かぬ。まあ、その腐った椅子にでも掛け給え。わしは勝手に喋るから」

「――」

 私は他ならぬ手命令いいつけには背く事が出来ず、不承々々以前の椅子に腰を下しました。

「他の事でもない、三年前の事だが」手は話し出しました。「あの夜、鳥沢がどう云う訳で君を呼留めたか知っているかね」

「存じません」

 三年前の事を聞くのは苦痛でした。私は心の動揺を押し隠しながら、答えました。

「そうだろう、君は知る筈がない。わしはふとした事で知ったのだが、鳥沢は昔独逸のグリウネワルドと云う地方で経験した事をそのまま君に適用したのじゃ。と云うのは彼は当時君のような青年で、あの夜の君同様、饑餓と酷寒とでへトへトになりながら、深い森の中を漂浪していたのだ。するとね、彼を不意に呼留めた一人の異様な老人があった。

「その老人と云うのが、やはり若い時に諸国を流浪した経験のある男で、鳥沢を森の中の自分の家に連れて行き、温い食物を振舞い、温い臥床ふしどを与えたのじゃ。

「ところが、その老人と云うのはどう云う素性の人間か分らないが、その森の中の一軒家で数え切れないような財宝を貯えていたらしい。それを鳥沢はそっくり貰ったのじゃ。いや、或いは盗んだのかも知れぬ。とにかく、その森を出て来た時には鳥沢は見違えるような元気になり、その年にはサロンに出品して一躍画才を認められるようになり、瞬く暇に富豪になった。しかし、彼は画で金を作ったのではなく全く森の中の老人の財宝のためなのじゃ。彼がそれをどう云う方法で手にいれたかは前に云う通り分らぬが、彼が帰朝後始終何者かを恐れる風だった事や、宏壮な家を作って、緑林荘などと云う盗賊に縁のある名をつけた事は、或いはグリウネワルドをしのつもりかも知れぬが、その間の消息が解せないでもない。

「で、あの晚の事だが、彼は自分の財産の後継者を求めるために、ああして真夜中にあんな所にいたのじゃ。彼は彼自身がグリウネワルドの森の老人から授けられたのと同じ方法で、自分の財産の後継者がママ見つけたかったのだ。彼は饑餓と疲労で斃れかかっている漂浪の青年を探し求めていたのだった。それへ君が、恰度行き当ったと云う訳だ。彼は喜んで君を家に連れて行き、君に謎のような言葉を残して、自殺をしたのだ」

「え、え」私は飛上りました。「じ、自殺ですって」

「そうじゃ、彼は生きている事を欲しない事情があって自殺をしたのだよ」

「では、誰かが自殺を助けたのですか」

「いいや、彼一人で死んだよ」

「そんな筈はない。そんな筈はない。短刀は確かに背中に突き刺っていた!」

「ハハハハ、奴はレオナルド・ダ・ヴィンチのような天才じゃ。奴は恐るべき自殺の方法を発明したのじゃ。彼は汽車の自働ママ聯結機と反対の作用をする機械を製作した。自働聯結機は衝撃を与えると、機械がガチンとそのものを嚙む働きをするものだが、彼は逆に、初め短刀を嚙まして置いて、これに衝撃を与えると、くわえていた短刀を放すと云う機械を作った。彼は短刀を咥えて立っている機械に背中を向けて、力を籠めて衝突した。背中にグサと短刀が突刺さると共に、機械は短刀を放す、彼は背中に短刀を背負ったままバッタリ床の上に斃れる。短刀の先には予め毒液が塗ってあって、死損わないようにしてあった。巧妙な事には短刀を咥えていた機械は短刀を放すと共に、部屋の隅の方に移動するようになっていた。隅にはいろいろ他の機械があったから、この秘密は容易に発見されないのだった。こうして彼は完全に自殺を胡麻化す事が出来たのだった」

「しかし、しかし」私は渇いた唇をしめしながら云いました。

「どう云う理由わけでそんな事をする必要があったのですか」

「それは彼の敵を傷けるためだ。彼には敵があった。恐るべき脅迫者があったのだ。彼はその敵を陥いれるために、そう云う計画をしたのだ」

「え、え、敵と云うのは誰ですか」

「彼のグリウネワルドの森の中の秘密を知っている者が唯一人あった。それは他ならぬ彼の旧友の穴山市太郎で、鳥沢は絶えず彼から脅迫を受けていたのだ」

「だが、穴山はうに死んだではありませんか」

「鳥沢は穴山さえ死ねば他に秘密を知る者はないと思っていた。しかし、穴山も去る者で、万一の場合を思って或る人間に鳥沢の秘密に関する書類を預けて置いたのだった。その人間はあの夜鳥沢邸に忍込んでいた。それで彼はあんな死方をして、その人間に殺人の嫌疑を向ける積りだったのだ」

「あの夜あの家にいた人間と云うのは誰ですか。その人間を探し出して下さい。その人間こそ私を晴天白日にしてくれる人間です」

よろしい、君の願い通りにしよう」手はニヤリと笑いました。「その前に君に見せる物がある」

 彼はそう云って懐中ポケツトから一枚の紙を取出しました。それはノートブックを引裂いたようなものでした。

「鳥沢の秘密の日記の一部だ。読んで見給え」

 私は裁判所で度々鳥沢の書いた物を見せられましたので、彼の筆蹟はよく知っています。確かに彼の書いたものに相違ありません。それには走り書で次のような事が書いてありました。

 今日いよいよ確かめる事が出来た。この間穴山が真青な――日本語では青と云ってしまうけれども、実は緑だ――トマトを見て、彼は見事な赤いトマトだなと云った。俺は冗談かと思って好い加減に聞いて置いたが、その後気をつけていると、彼は確かに緑と赤の区別が出来ない。今日こそ彼が立派な色盲であると云う確証を得た。彼が画家として成功をする事の出来なかったのも無理のない話だ。俺はいつかこの事実を利用して、憎むべき脅迫者、骨をしゃぶってもあきたらない彼に復讐を遂げる事が出来そうだ。

「こ、これは」

 私は余りにも恐ろしい言葉に思わず叫びました。

「レオナルド・ダ・ヴィンチに比すべき天才――もっとも鳥沢は悪人でおまけに気狂だったが」手は平然として云いました。「彼は僧むべき敵である穴山が色盲で赤を緑と見る事を知った時に、巧妙な且つ恐るべき計画を思いついた。思うに、富士丸にも矢張そうした奸計が隠されていたかも知れない。彼はもし成功すれば続いて自殺でもする気で、彼の秘密に関する謎のような事を来賓一同に述べたのかと思われる。しかし、その時には成功せず、後に園遊会で彼の奸計は成功した。可哀想な穴山には緑色の板に赤字で書いてあった文字は、全然読む事が出来なかったのじゃ。あの時、彼には普通の電柱と高圧の電柱とを区別する事が出来なかったのだ。鳥沢治助は実に天才的犯罪者だ。色盲を利用したとは驚くべき犯罪だ」

「では、穴山は鳥沢に殺されたのですね!」

「その通り。穴山はまさに鳥沢の奸計に陥ちたのじゃ」

「で、穴山が万一を思って秘密を托したと云う人間は――」

「ハハハハ、それはわしじゃ」手は大きな鼻をうごめかしながら答えました。

「ええッ、あなたが!」

「わしは穴山の復讐をすると共に、鳥沢の隠している財宝を見つけようと思って、あの夜彼の緑林荘に忍び込んだが、早くもそれに気のついた彼は先手を打って、あんな死方をした。わしはもう少しで危い所だった。しかし、わしは最近に彼の機械仕掛を発見して、当局者に教えて置いたから、もう心配はない」

「では」私は少し云いよどみましたが、「あなたが熱心に私の弁護をして下すったのは、必ずしも私のためばかりではなかったのですね」

「そうとも、誰が見ず知らずの他人のために、何の利益にもならぬ事に骨を折る奴がある者か。しかし、君はそんな事で幻滅を感じるのは止めた方がいい、世の中は皆そんな物だから」

「では、ここへこられたのにも何か――」

「そうとも、そう分りが早いと話がし易くて好い。わしは君の弁護に相当骨を折ったが、その代りに君がこの場所を教えてくれた事には感謝するよ」

「え、え、それはどう云う訳ですか」

「君はあの夜鳥沢の云った最後の言葉を覚えているだろう」

「ええ、緑の幸福と富士山の神秘と云った様な言葉でした」

「彼は富士丸の上でもそんな事を云っている。わしはこんな下らない謎を解くのに三年近くかかったよ。簡単な程解きにくいのは謎だからね。緑と云うのは青と黄との混合だ。つまり青黄の間で、富士の神秘とは、富士の裾野に青木ケ原と云う千古の森林がある。つまり青木ケ原を探せと云う事なのだ」

「まるで子供だましではありませんか」

「いかにもそうだ。しかし、この謎は独立に作ったのではなく、穴山を殺すために緑色にすべてを塗り潰す必要から、緑の手紙を思いついて、世人を胡魔化し、緑色の幸福を高唱した事から、是非緑を基として作らなければならなかったので、苦しい謎しか出来なかったのだろう。もっとも青木ケ原はグリウネワルドから思いついたのかも知れぬ」

「それで、宝は見つかりましたか」

「ところがね、ようやく隠場所を見つけると、先刻君に見せた秘密の日記や、書類見たいなものばかりで、財宝らしいものは何にも出て来ないのだ」

「どうしたんでしょう。誰か掘り出したのでしょうか」

「いいや、天才的計画者である彼は、二重の鍵を作って、青木ケ原にあると見せて、更に安全な所へ隠したのだ」

「そ、それはどこですか」「即ち、この家さ。彼は人知れずここに緑林荘を作って、それへ隠したのさ」

「え、え」私は思わず部屋の中を見廻しました。

「もう探しても遅いよ。わしがちゃんと見つけたよ」

 そう云って手は大口を開いて、ニタニタと妖婆のように笑いながら、いつの間に持っていたか、古い革袋のようなものを取り出して、ザラザラと床の上にあけました。

 おお、夥しい緑の財宝! サファイヤ、翡翠ひすい、トウマママリン、アクアマリン、エメラルド、青のう、数限りない緑の宝玉が紺碧の水を湛えた神秘の湖に落ちて、透き通った瑠璃るりまつを飛ばすように、眼の前に溢れ散りました。

(「新青年」昭和三年十二月号)

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