オープンアクセス NDLJP:62甲陽軍鑑品第十七 巻第八
武田法性院信玄公御代惣人数之事 

御親類衆

伝解ニハ典厩逍遥軒共様ノ字ヲ加フ 一本黒大文字トアリ 一条ハ信虎ノ男 仁科ハ信玄ノ五男 望月ハ古典厩ノ二男 葛山六郎義久 一武田典厩 旗黒地に白丸 二百騎 一逍遥軒 旗色きれて見へず 八十騎 一勝頼公 旗白地に大文字 二百騎 一一条右衛門太夫殿 旗白地にすそあか 二百騎 一武田兵庫殿 旗色書付なし 十五騎 一武田左衛門殿 旗色書付なし 百騎 一仁科殿 旗色きれてみへず 百騎 一望月殿 旗色きれてみへず 六十騎 一かつら山殿 旗色書付なし 百廿騎 一板垣殿 旗色書付なし 百廿騎 一木曽殿 旗色書付なし 二百騎 一穴山殿 旗きれてみへず 二百騎

御譜代家老衆

胴赤 伝解ニハ二百五十騎トアリ 晴々ハ段々ノ誤ナルヘシ 亟ハ尉ノ誤ナルヘシ 原ハ一本百廿騎内五十騎ハ近習ナリトアリ 跡部ハ伝解全集トモニ旗色白地ニ朱ノ丸トアリ 駒井ハ一本ニ五十五騎内五十騎ハ近習ナリトアリ 伝解ニハ此末ニ跡部美作ヲ加ヘ旗色切れてみへず五十騎トアリ 一馬場美濃守 旗白地黒山道 百廿騎 一内藤修理正 旗白地どうあか 二百五十騎 一山県三郎兵衛 旗黒地に白桔梗 三百騎 一高坂弾正 旗くちばの四方 四百五十騎 一小山田弥三郎 旗色きれてみへず 二百騎 一甘利左衛門丞 旗白赤晴々 百騎 一栗原左兵衛 旗白地に黒わくのて 百騎 一今福浄閑 旗きれて見へず 七十騎 一土屋右衛門丞 旗黒地に白鳥井 百騎 一秋山伯耆守 旗きれて見へず 五十騎 一原隼人佐 旗色きれてみへず 百廿騎 一小山田備中守 旗色きれて見へず 七十騎 一跡部大炊助 旗色きれてみへず 三百騎 浅利 きれて見へず 百廿騎 一駒井右京 きれて見へず 五十五騎 一小宮山丹後 きれてみへず 三十騎

信州先方衆

蘆田下野 屋代左衛門 伝解ニハ大室ノ次ニ浦野源之亟十騎ヲ加フ かいたは河田はたは須田ノ誤ナルヘシ 綿内 小田切采女 栗田刑部 山部民部 西条治部 丸子三右衛門 伝解おぎヲをみトス 会田 依路 室賀 一真田源太左衛門 旗色黒四方 二百騎 一真田兵部 五十騎 一蘆田 百五十騎 一松尾 百騎 一下条 百騎 一相木 八十騎 一海野 八十騎 一屋代 七十騎 一雨宮 七十騎 一寺尾 二十騎 一大室 五十騎 一かいた 十騎 一わた 七十騎 一わたうち 三十騎 一おたぎり 三十騎 一栗田 六十騎 一やまべ 四十騎 一いも川 六十騎 一八幡神主 二十騎 一西条 四十騎 一赤沢 四十騎 一小笠原新弥 六騎 一くさま備前守 十二騎 一青柳 五十騎 一とき田 十騎 一やさは 十六騎 一をの山 六騎 一桜井 五騎 一まりこ 三十騎 一た気し 三十騎 一おぎ 十騎 一あひた 十騎 一山口 五騎 一戸田大隅守 六騎 一保科弾正 百廿騎 一ばんざい 六十騎 一大津 十騎 一よら 十騎 一とうの原 廿騎 一地く 十五騎 一座光寺 三十騎 一松岡 五十騎 一塩崎 廿騎 一小泉 廿騎 一もろか 廿騎 一根津 三十騎 一大島 一片桐 一飯島 一はふ 一あかづ 五人合五十騎 一諏訪 五十騎 オープンアクセス NDLJP:63

西上野かうつけ

伝解ニハ此末ニ清野清受軒九十騎隅田淡路守十騎仁科入道八十騎春日播磨五十騎岩井右馬之助百騎ヲ加フ 小幡上総守赤備騎馬千騎ノ内五百騎 和田ノ上ノ城主和田左衛門尉下ノ城主同兵部允三十騎倉鹿野淡路 五甘 長根 大戸 安中左近 一小幡上総守 五百騎 一和田 三十騎 一たい羅 四十騎 一高山 五十騎 一白倉 五十騎 一あまお 五十騎 一きベ 五十騎 一くらかの 五十騎 一依田 八十騎 一ごかん 一ながね 合六十騎 一おふど 十騎 一安中 百五十騎 一松本兵部 十五騎

駿河先方衆

伝解ニハ三浦右馬之介ヲ十五騎トス 一朝比奈駿河守 百五十騎 一岡部次郎右衛門 五十騎 一岡部丹波守 十騎騎 一三浦右馬介 四十騎 一朝比奈監物 二十騎 一三浦兵部 二十騎 一三浦右近 十騎 一小原ー二十騎

庵原弥右衛門此様なる一騎衆七八拾騎は典厩穴山殿土屋右衛門山県三郎兵衛三枝勘解由五人与力付二三十騎御旗本にも乗也

海賊衆衆

向井伊兵衛ハ岡部忠兵衛家来ナレドモ剛兵ナルヲ以テ直参トナル 一間宮武兵衛 船十艘 一間宮造酒丞 船五艘 一小浜 あたけ一艘小舟十五艘 一向井伊兵衛 船五艘 一伊丹大隅守 船五艘 一岡部忠兵衛 船十二艘同心十五騎

右岡部忠兵衛駿河にて忠節人の故、土屋忠兵衛になされ候己の極月駿河治まりてより土屋備前になされ候此内覚への者

一大石四方の介  一大石四方の介  一沢江左衛門  一ときは万右衛門  一入沢五右衛門  一保科六右衛門一本ニ保科ヲ小塩トス

遠州三州先方衆

伝解ニハ菅沼新八郎(後仝之三州陀峰ノ城主)トス
長篠伊豆
一天野宮内右衛門 百騎 一奥平美作守 百五十騎 一菅沼新三郎 四十騎 一長篠 三十騎

飛弾先方衆

一江間常陸守 百五十騎

越中先方衆

一推名 百七十騎 一舎弟同甚左衛門 是は五騎にて馬場美濃与力付に討也

武蔵先方衆

一永井豊前守 八十騎 一小幡三河守 百騎

御旗本武者奉行

一今井刑部左衛門 一今井新左衛門

足軽大将衆

新三郎ハ新十郎ナルヘシ 伝解ニハ曽根内匠ノ次ニ上原民部入道随翁軒騎馬三騎足軽三十人ヲ加フ 伝解ニ安間三右衛門騎馬五騎足軽五十人トアリ 一横田十郎兵衛 騎馬三十騎 足軽百人 一原与左衛門 騎馬十騎 足軽五十人 一市川梅印 騎馬十騎 足軽五十人 一城伊庵 騎馬十騎 足軽十人 一多田治部右衛門 足軽十人 一遠山右馬 騎馬十騎 足軽三十人 一今井九兵衛 足軽十人 一江間右馬 足軽十人 一関甚五兵衛 足軽十人 一小幡又兵衛 騎馬三騎 足軽十人 一大熊備前守 騎馬三十騎 足軽七十五人 一三枝新三郎 騎馬三騎 足軽十人 一長坂長閑 騎馬四十騎 足軽四十五人 一下曽根 騎馬二十騎 足軽五十人 一曽根内匠 騎馬十五騎 足軽三十人 一曽根七郎兵衛 足軽七十人 一武藤喜兵衛 騎馬十五騎 足軽三十人 一三枝勘解由左衛門 騎馬三十騎 足軽七十人 一あんま 足軽五十人 一小幡弥左衛門 騎馬十二騎 足軽六十五人 オープンアクセス NDLJP:64

駿河三河信濃上野の一騎合衆

波合 平屋 小万場 木所 一波あひ備前 三騎 孕石主水はらみもんど 三騎 一ひらや玄番げんば 三騎 一由井市之丞 二騎 一こまんば丹波 三騎 一由井弥兵衛 二騎騎 一高尾 三騎 一小林正林 一きところ道寿 三騎 一安左衛門

此外一騎合衆右合三拾騎是はさかひめにて関をとり或は陣へ立ても寄合とて牢人衆と一備に有

御料人様衆

一五味新右衛門  一同伝之丞 是二人は頭也  一小沢新兵衛  一石黒八兵衛  一前島和泉  一竹千世  一朝比奈新九郎  一たへさは久助丹沢久助  一永井又五郎  一もるか甚五郎全集ニ有賀甚五左衛門トアリ

此外以上三十騎

御同朋衆

又此切れてみえずトス

一なにあみ   一さい阿弥   右三十人是は御前様衆を後御料人様へ付らるゝ

御しやうどう様衆

秋山越前 一下条讃岐 一みなひゆきゑ皆井靱負 一甘利三右衛門 一高村清右衛門 是五人を頭として以上三十騎一本高村ヲ高室トス

右御しやうたう様後は海野が跡を可遣事なり扨又御陣の御留主は御しやうだう様衆御前様衆御蔵前衆御かまへの御番なり

御曹司様衆  一ぬくひ常陸守 是は御守なり  御小姓衆

一本ニ古屋金三郎トス 一土屋惣八郎 一跡部喜兵衛 一甘利彦五郎 一土屋源五左衛門 一雨宮善二郎 一曽根内膳 一安部掃部 一日向伝次郎 一原甚五郎 一原おちご 一横田おむつ 一跡部お熊 一白須平次 一古屋平三郎 一友野又市 一三枝監物 一大蔵新蔵 一跡部主殿 一小山田弥五郎 一跡部源左衛門 一岩本右近 一小山田新之丞 一市川内蔵 一おたき彦次郎 一おたき彦次郎

御なんど奉行

一河村下野 一内藤外記

御同朋衆

来阿弥 一万阿弥 一らいあみ 共に以上合三十八騎 一職 山県三郎兵衛持

公事奉行

一今福浄閑  一武藤三河守  一桜井安芸守  右三奉行  用周公吐握

 御陣留主には御蔵の前衆目安を請取、目安箱に入置也

勘定奉行

全集ニ馬屋別当両人名所切れてみへずトアリ

一青沼助兵衛 騎馬十五騎 足軽三十人  一市川宮内助  一跡部美作守  此衆惣算用聞也

御蔵前の頭四人

一古屋道忠 一古屋兵部 一伊奈宗普 足軽七十人  一諏訪春芳 足軽七十人 一古屋内匠 一古屋文六郎 一伊田村新左衛門伊田村ハ八田村ノ誤ナルヘシ 一松木桂琳 一平岡 一石原 一大野 一小宮山民部 以上三十五人

御蔵前につめ五人組にして一日一夜づゝ御なんどの番を代官衆つとむる也万事御目付衆三日に一度づゝ一切善悪のことを見立聞立一書にて言上申者共也

一坂本武兵衛 一塚原六右衛門 一武井江右衛門 一三沢四郎兵衛 一あい川甚五兵衛 一島田外記 一笠井半兵衛 一小池主計 一伊藤玄番 一切田勘之丞

右此十人は二十人の頭になされ信玄公御身近く御供仕る場を引たる武篇の覚へ五度より少きは一人もなしさるに付かちの衆一人に十二人づゝ預らるゝ一組に二十四人かしら共に二十六人を一番にして以上五番の積りにて出、御陣一日一夜番役を勤る也一本御陣ヲ御城トス

此横目衆

オープンアクセス NDLJP:65一荻原豊前守  一久保田助之丞  一原大隅  一志村又右衛門  一中村弥左衛門  一河野但馬  一河野但馬 一石坂勘兵衛  荻原五左衛門  一山本土佐 一久保田監物

右此十騎は御中間頭なり一人に付て三十人御小人御中間御道具衆よりこを預り御搆へ大手の番屋にて日一夜宛番役をつとむ殊更甲州口々の筋奉行を彼の御中間頭に仰せ付けらるゝ府中其外在々の役者衆或は又目付衆迄の依怙贔負善悪の横目なりさるほどに永禄七年甲子七月十四日の夜太郎義信公長坂源五郎御供にて灯籠御見物とことよせて御城を御出あり忍びて飯富兵部処へ御座なされ候故乱鳥迄談合ありたる様子を不審に存知奉り御中間頭荻原豊前信玄公へ申上るそれより不審を立てられ太郎義信公逆心の事あらはれて翌年丑の年飯富兵部長坂源五郎両人御成敗なり太郎義信公をらうへ入れまいらせられ其上義信衆御成敗或は御改易なり御もりの会禰周防を則ち荻原豊前に仰せ付けられはなし討ちに討つなり如此御父子の間にて不審立つること少しもかくしなく目付横目の言上いたすは何れの国にてもあるまじき事なり是れたゞ一偏に信玄公の人を能く召し仕い給ひ能く目利なされてよくさいばいを取り能く仕置きの法度無類なる故ならん

一右之内御道具の衆三十五人は御中間頭衆に劣らざる者をなされ候心は剛強にても御心安き者にて無之はなされず御譜代の中間小人の中にてすぐり出し如此然れば御中間頭各武篇仕る御証文大かたこゝにあらはし置き候他国の歴々覚への衆にもさのみ劣り申間敷候中間衆などのケ様に挊ぎたるは末代には如何もあれ前代にはさのみ何方にも有之とは聞かざる故にこまかにこれをしるす

一原大隅御感状 十八 一山本土佐 十一 一荻原豊前 十三 一久保田監物 六ツ 一中村弥左衛門 三ツ 一久保田助之丞 二ツ 一河野但馬 四ツ 一志村又右衛門 五ツ 一荻原五左衛門 五ツ 一石坂勘兵衛 七ツ

今度始而出馬候処各以相挊敵二三ケ処落居辛労祝着候弥忠信可仕者也

  五月十日 晴信  天文十七年戊申

 後荻に被成 長坂源内右衛門とのへ後荻ニハ荻原ニナルヘシ

今十一日未刻於信州佐久郡志賀城頸一ツ笠原新三郎討捕之神妙候弥々可忠信者也仍如

  八月十一日 晴信 御朱印天文十六年丁未

 (後豊前に被成候)荻原弥右衛門とのへ

今十三日申刻於信州苅屋原城頸十一太田弥助討捕之御神妙候其方一身走迴以被御本意候弥々可忠信者也仍如御神妙ノ御ハ衍字ナラン

  天文廿一年壬子八月十三日 晴信 判

 荻原弥右衛門とのへ

此於苅屋原城内より日の中に十度つゐて出、せり合有其刻彼荻原弥右衛門旗本より御使に参り十度ながら首尾にあい人を討十度目にはつけ入にのつとる時城主太田弥助を討取也

一訴人岩間大蔵左衛門とて御分国中万事の儀を申上る侍一人あり一本ニ此外は皆きれてみへず荻原が御感状三ツ残りたるを本のごとく元和七年辛酉四月記之トアリ

○御台所頭両人  一前島加賀守  一大島惣兵衛  此外十人有

○茶堂坊主頭両人  一福阿弥  一しゆん阿み  右のよりこ同朋廿人あり 一御髪そりの越蔵王えつぞうす

○御右筆衆  一永順是は真の物書也  一神尾庄左衛門  一宗白

解伝ニ八重林因幡ヲ加フ是ハ三条殿衆信玄公御台所ニツキ甲府ヘ来ルトアリ ○諸国へ御使者衆四人  一日向源藤斎  一秋山十郎兵衛  一西山十右衛門  一雨宮ぞんてんぞんてんは存銕ノ誤ナルヘシ  在府衆在郷衆惣近二百五人奥衆三十五人の内にて御陣の時

○御使いたすは大方むかでの差物の衆也  一諏訪越中  一工藤市兵衛  一染戸左京介  一山田弥助一本ニ小山弥助トアリ  一小山田八左衛門  一初鹿弥五郎初鹿弥五郎ハ後ニ伝右衛門ト云馬場美濃守ノ聟ナリ  一吉田左近  一小山田又二郎  一小宮山内膳  一三枝善八郎  一小山田十郎兵衛  一原勘四郎  一金丸助六郎  一小山田彦三郎  一諸角助七郎  一曽根与一之助

○御旗奉行  一岩手右衛門佐  父子

御鍵奉行  一安西平左衛門 騎馬十騎 足軽五人  一今福新右衛門 騎馬十騎 足軽十人  オープンアクセス NDLJP:66一かずの市右衛門 騎馬十五騎 足軽十人  是は真田一徳之末の子なるを御一家のかずのがあとめに被成候

一本ニ秋山十郎兵衛又原甚四郎トアリ
子助市郎若キ故春日左衛門ヲ添フ

○御とぎ衆  一小笠原慶安斎  一板坂法印  一同卜斎  一山本大林  一寺島甫庵  一岡田堅桃斎  一小侯清甫  一一花堂  一長遠寺  一新藤金藤斎  一市川宗三  一犬山鉄斎  御はなし衆御看経かんきん所の御番也

○御旗楯なしの別当  一山下伊勢 御旗本の惣近寄衆二百五騎此次外様近寄百騎は原隼人に五十騎駒井右京駒井右京に五十騎預け給ふ也近寄二百五騎 右之外牢人衆百十人此頭

​越前牢人​​一五味与宗左衛門​一本越後牢人五味与三兵衛トス又伊井ヲ飯尾ニ作ル牢人合百十三人此大将武田兵庫頭  ​関東​​一名和無理ノ介​  ​遠州牢人伊井豊前姪也​​一伊井弥四右衛門​  一高流かうるい兵部是ハ御細工奉行  一石原治部右衛門 是は御馬の血とり

○猿楽衆  一観世太夫  一大蔵太夫  両座合子共をかけて太夫共に五十一人なり 全集ニ常乃客衆ハ
一土岐 一佐々木
佐々木殿は信玄公御他界其年天正元年酉霜月御座候故是れは勝頼公御代之牢人衆也但佐々木ハ信玄公御他界の年酉霜月参らるゝ故勝頼御代の牢人なりトアリ以上惣騎馬数合九千三百四拾騎但し大将共此内にて引方御料人様衆三十騎御蔵前衆三十九人御しやうだう様衆三十騎御台所衆十人御曹司様衆三十八騎御同朋衆二十人猿楽五十人引方合二百十八騎

○右惣人数之外人質の事永 禄七年に飛弾の国江間常陸弟坊主善立寺と申、甲府へ致進上候常陸他事なく御忠節の様子にて彼僧を俗人になされ知行を下さる江間右馬丞と名乗り足軽十人預けなされ候椎名肥前守永禄十一年霜月遠州の侍天野宮内右衛門秋山伯耆守取次をもつて人質に子息を甲府へ進上申 永禄八年に越中国椎名亀松と云ふ子息を進上伝解全集トモニ元亀元庚午年トス 永禄十二巳己年正月信長扱ひをもつて三州家康舎弟を甲州下山迄進上候穴山殿預りなり但し是れは其年中に家康へ御返しなさるゝ子細は山県三郎兵衛家康自身出て駿河瀬戸と云ふ処にて喧嘩故無事破れて如候  天正元年三月織田信長五番目の子息御坊を甲府へ人質に進上候然れども人質をば取りて東美濃へ御発向なり  元亀元庚午年極月小田原北条氏政人質に舎弟助五郎を甲州郡内郡内にてハまてノ誤ナルヘシにて進上候則ち小山田弥三郎に預け有是は小宰相と申す女房御使にて如此此女房他国へ御使をいたす故信玄公御前出頭なり    引残て騎馬数合九千百二十一騎一  大小惣ならして主共に五人づれにして四万五千六百五十人  御旗本足軽八百八十四人 惣御家中の足軽五千四百八十九人歟 足軽二口合六千三百七十三人  右惣合五万二千二十三人五人づれの積りなり

又大小惣ならして主共に四人づれにして三万六千四百八十四人御旗本足軽八百八十四人惣家中足軽五千四百八十九人  足軽二口合六千三百七十三人 惣合四万二千八百五十七人是は上下四人づれの積りなり  又大小惣ならして主共に三人づれにして二万七千三百六十三人  足軽二口合六千三百七十三人  惣合三万三千七百三十六人

右之内を抜き出し御旗本の惣人数二千九百三十五人但し二十人衆頭御小人頭二十騎をは主共に三人積りなり足軽大将衆又は奥近寄衆三十五人は随分歴々の身上なる故三十人二十人召し連れ候へども是をも押籠み十人づれに積り如此なり此内弓鑓鉄炮小荷駄足軽八百八十四人以上雑兵合三千積りなり全集ニハ鉄炮ノ下小荷駄ヲ除キ末文ニ小荷駄ハ此外ニテ候トアリ此外にて候

○西表遠州三州 之御先  一山県三郎兵衛山県ハ駿河江尻在城  手前三百騎中州信濃同心共に 此組衆  一朝比奈駿河守 一逍遥軒聟松尾  一大熊  一山形聟相木  一奥平美作守  一菅沼新三郎  一長篠  一三浦右馬助伝解ニハ右馬助ヲ右近トス  一三浦兵部  一孕石主水  一きところ道寿  合九百八十騎但組衆は遠陣の時は半役なり関東御陣の時は駿河三州の衆信長家康を押へられ候

○関東方新田足利への御先  一内藤修理  手前二百五十騎  此組衆  一高山  一白倉  一たいら  一あまお  一くらがの  一こかんなかねこかんなかねハ五甘、長根ナリ  合六百騎西面御陣の時は組衆は半役也内藤手前も五十騎簔輪に残す

○美濃国岩村の城に信長押へ  一秋山伯耆  手前五十騎  此組衆  一下条  一ばんさい  一地く  一松岡  一さくおふるさくおふるハ座光寺ノ誤ナルベシ  合三百五十五騎  御供申さす美濃の御陣の時ばかり御供いたす也

馬場みのゝかみ信州まきの島に在城して越中飛弾への御先とはいへ共手前の人数四五十騎組衆にそへ残し何方へも御供の子細は馬場美濃守弓矢功者の故如此  一馬場美濃守  手前百二十騎  オープンアクセス NDLJP:67此組衆  一江間常陸守  一推名  一荻  一岡部次郎右衛門  合五百騎関東御陣の時は駿河衆不立、飛弾越中衆はまして何方へも不立去に付て馬場美濃守人数すくなし

○越後謙信押のために信州かひづに在城者  一高坂弾正  手前四百五十騎  此組衆  一小幡弥左衛門  一雨宮  一寺尾  一大室  一わたうち  一須田  一屋代伝解ニ屋代ヲ川田トス  一小田切  一栗田  一赤沢  一山辺  一八幡神主  一西条  合千二拾七騎全集ニ芋川ヲ加フ  此外長沼両人  一原与左衛門  十騎  足軽五十人  一市川梅印  十騎  足軽五十人  長沼に在城也以高坂分別山辺赤沢を長沼与左衛門梅印加勢両人指置也   一逍遥軒  手前八十騎  此組衆   一あひた  一山口  一松本兵部  一依田六郎  一おふど  合百九十騎遠州三州美濃御陣の時は何れも組衆十騎は五騎づゝつるゝ、いづれも此通り也  一一条殿  手前百騎  此くみ衆   一青柳  一よらよら一本ニ依路ニ作ル  一大津  合百七十騎  一土屋右衛門丞  手前百騎  此組衆   一小笠原新弥  一くさま備前  一奥山全集ニハ奥山ヲ小野山トス  一時田  一屋沢屋沢一本ニ矢沢ニ作ル  一桜井  一とうの原   合百七十五騎  一蘆田 手前百五十騎 此くみ衆  一馬場美濃守聟まりこ 一た気し  右之外在之云々   合二百十騎  一馬場美濃守美濃守ハ信州牧野島在城  百廿騎  此内さいはい御免の衆  一鳶大弐(後に飯寄勘兵衛と云)  一ひな  一なか牧伊勢守  一平村藤右衛門平村ハ平林ナルヘシ  一早川豊後守  {子息早川弥宗左衛門是は山県家中にて走廻あり}  一金丸弥左衛門  一小幡弥宗右衛門 {是ハ小幡山城舎弟也山城におとらおものなり}  一山県三郎兵衛   手勢三百騎之内さいはい御免之衆  一古畑伯耆守(本のさいはい) 一飯田  一小菅五郎兵衛 (本のさいはい)  一曲巻監物  一ふたつき弥右衛門  一岩沼  一広瀬江左衛門  一三科肥前  (本のさいはい)  一曲淵庄左衛門  一猪子才蔵  一四巻又兵衛  一上野豊後  一孕石源右衛門 右此衆場数多し勝れたる手柄廿度を越したる衆爰右の外早手のおぼえの者  一きた地  一わた加助  一渡辺三左衛門  一志村宮内之丞  一石黒将監  一こ地一本ニこ地ヲ小池トス  一川原村  一ふたつき源三郎  一辻弥兵衛  一今福もとめ  一長坂宮内左衛門  一尾崎  一ひげなし外記又ひげなし外記ヲ髭なし滝トス  一久保勘左衛門   一越石主水  一川手文左衛門  一三井   如此山県馬場内藤を初め御先衆三番通の者どもは二の手後備への覚への衆と同前なり山県内の賂人も頸五六ツ取り申し候但二の手後備へにも親父の代に御先仕たる衆には廿度に余り場数の衆多し北条氏康広き関東にて摠人数の中にて御感三ツ持たるより上の覚の者改めて見給へは八十七人ならでなし信玄公是れを聞き給ひあらため給へば御感三ツ取りたる上の衆山県三百騎の内に六十七人馬場美濃守百廿騎の内に四十一人ありさるに付、はやしれたるとて此事をやめ給ふ

小幡ハ上州国岑居城 加美小山田ハ甲州都留郡在城 ○同先衆  一小幡上総守  手前五百騎是は組なしにて御先をい立  此内覚の衆  一友松将監  一かみ権之助   一安井  一熊井戸  一森平  一小山田弥三郎  手勢一百騎の内覚の衆  一奥和き加賀守奥脇   一小林尾張守  一小山田弾正  一上原能登守  一小山田掃部  一加藤丹後守  {是ハ加藤駿河子息なり駿河におとらぬ者なり}   一安左衛門(是は坊主落にて覚もなき者なれども殊の外心がけいたし有徳の故足軽三十人つれて出る郡内の者なる故小山田に是を付給ふ)

○同先衆  一浅利  手前百廿騎        ○同先衆  一高坂弾正  手前四百五十騎  信州かいづに被差置高坂ハ信州海津在城二のくるわに小幡弥左衛門山城時のごとく也弾正内覚の者  一飯島長左衛門  一渡辺六郎左衛門  一川井八兵衛  一川井次郎兵衛  一外記弥八郎  一駒沢新左衛門  一金井清八郎  一長崎与七郎  一平山出羽守  一川崎七郎左衛門  一わた内市之丞  一雨宮忠左衛門  一とたさき郷右衛門  一しほの市右衛門  一広沢九右衛門  一小倉五郎右衛門  一小幡因幡守  一河野丹後守

○同先衆  一内藤修理正内藤ハ上州簑輪在城  手前二百五十騎之内覚之衆  一道寺久助  一花形民部左衛門  一きべ駿河守木辺  一町田兵庫  一かんな図書神奈  一上泉伊勢守 {信長公へ御暇を申上諸国へ兵法修行仕るなり}  一寺尾豊後守  一長沼  一八木原  一久保島 一矢島(右是は長野信濃守代より上杉家にもためしまれなるおぼへの衆なり)

○二の御先衆  一典厩御  手前二百騎之内覚之衆  一青木尾張守  一依田新左衛門  オープンアクセス NDLJP:68一篠沢勘兵衛  一小松庄左衛門  一高木蔵人  一跡部又兵衛  一瀬下惣兵衛 一瀬場 一高木

○同御先衆  一勝頼公勝頼ハ信州高任在城  御手前二百騎之内おぼへの衆  一安部加賀守  一小原下総守

○同御先衆  一逍遥軒  御手衆八十騎

○同御先衆  一武田左衛門佐殿  手勢百騎之内おぼへの衆  一長谷川新之丞  一油井内膳  一松尾  一油井藤助  一堀屋又蔵  一油井藤太夫  一小川  一内田総三郎

○同御先衆  一一条右衛門太夫殿  手勢百騎之内おぼへの衆  一石黒五郎兵衛  一沢田  一和田新左衛門  一内山新之丞

○同御先衆  一甘利左衛門尉  手前百騎之内{永禄七年に左衛門尉}病死の後百騎許也前多勢也前多勢也  米倉丹後守此勢引廻す  一畠野加賀守  一須野原惣左衛門{是は小男惣左衛門とて奥座わかさ弟なり惣左衛門ハ兄若狭ト真田下ニテ村上方ヘ行大剛智略アリシニ依テ兄ニハ本地五十貫ヲ千貫ニナサレ海野八十騎ノ陣代仰付ラレ須野原ヲ改メ奥坐(一ニ小草ニ作ル)ニ下サル惣左衛門モ十貫計ノ身上ヲ三百貫ニナサレ甘利ニ預置

○同先衆  一穴山殿 手勢二百騎之内おほへの衆  一保坂常陸守  一蘆沢伊賀守  一佐野兵右衛門  一馬場八左衛門  一市川武兵衛  一塩津治部 一有泉大学 此外小身なる覚への衆  一若林三郎兵衛  一佐野内膳  一宇山無辺の助  一川手惣太夫  一蘆沢九郎右衛門  一保坂掃部

○同先衆  一土屋右衛門丞  手勢百騎

○在城衆  一秋山伯耆守  美濃国岩村に在城して信長を押ふる  一小宮山丹後  上野松枝に在城す  一駒井右京  深沢に在城す 一高坂弾正 信州かいづに有りて輝虎をおさゆる

但十月より末は越国大雪故長沼之衆斗りを置き弾正は御先を致す也馬場美濃真木の島にて越中を押ふるも如此なり併し是は夏の陣にも御供申、子細は越中に対して大将なき一揆の故椎名に申付其上まきの島に我人数少し残し、美濃はいつも御供なり  一原与左衛門  一市川梅印  一山辺  一赤沢  右四人信州長沼に在城なり

一木曽殿  信玄公聟になされ息女の輿ぞへとして茅村備前守山村両人を指し越し美濃ざかひ是を防ぐ

甲州石水寺の在番衆駒井次郎左衛門 一山県三郎兵衛駿河江尻に在城して遠州三州御先を仕る但し関東御陣之時は駿河先方衆を指し置き其身は御供なり

一内藤修理上州簔輪に在城して西北の御陣には跡を申付其身は御供なり  一小山田弥三郎は甲州郡内を信玄公十一代跡より下されて都留郡に在城也子細は小山田か先祖行人なり又其比武田殿御牢人ありて於武蔵滝山右の行人に出合ひ給ふ其方は何方の人ぞと尋ね有りひじりも甲州の者と申すそこにて武田殿御牢人の様子を被仰出時、聖此砌にて何にても御奉公走り迴り候はんよし申しければ塩の山の後ろの大杉の根に御旗楯なしをかくし置き給ふ間取りて来りてくれ候へかしと被仰出聖いかにもいさぎよく御つけを申し急ぎ甲州へ参り御旗楯なしをとりて帰り進上する其時武田殿御約束に本意御座なされ候はゞ郡留郡を右のひじりに下さるべきと御約束有り翌年に御本意をとげられ彼の聖を小山田になされ、つるの郡を下さるゝ其上にて信と云ふ字を下さるゝ事此刻より始り候小山田は平民なり就中小田原御陣の先を仕る武蔵又は新田足利への御先は内藤仕るなり

一板垣は駿州田中に在城する  手前百廿騎の内覚へ衆  一志村金右衛門一本ニ志村兼右衛門トアリ  一平原宮内の助  一河野又兵衛  一井上又左衛門  一小倉  一花形  一河村  一宇野  一今福浄閑駿河久能に在城同心七十騎此内原美濃守馬乗三十騎あるに手前四十騎同十騎そへて子息市左衛門に渡し諏訪高島在城也

一大熊備前、遠州小山に在城也  一下曽根信州小室に在城也  一遠州いぬい天野宮内右衛門は則乾にかき上城有  一勝頼公信州いなのたかとうに御在城なり  一遠州あまかたは駿河一騎合之衆番手がはり也  一飛弾の城は則江間常陸守  一三河岡崎へのとりで、宮崎は三州山家三方衆番手がはり也  一三州長篠は則長篠  一菅沼刑部城も其身居城也  一奥平も其身の居城也  一上野くにみねは小幡居城也  一上州石倉の取出会根七兵衛  一上州和田は則和田に被仰付  一上州安中も則安中に被仰付是は甘利がむこ也  一信州ふかしは宗普の御留主居也  一上州鷹巣は依田六郎  一信州諏訪高島は今福市左衛門此同心覚の衆  一しも新兵衛  一ひだり渡辺オープンアクセス NDLJP:69一信州相木は即ち相木居城 一信州望月殿は望月に居城也、是古典厩子息、後典厩舎弟也古典厩ハ信繁後典厩ハ信豊ヲ云フ  一信州(城の名所追て可考)保科弾正 組頭にても組子にてもなき人数持

一跡部大炊助  騎馬三百騎  一原隼人佑  百廿騎  一仁科殿  百騎一かづら山殿  百廿騎  一望月殿  六十騎  一武田兵庫殿  十騎  一栗原左兵衛  百騎  一小山田備中  七十騎  一海野  八十騎(是は奥座若狭陣代也) 一もろが 廿騎 一禰津 三十騎  一小泉  廿騎  一塩崎  廿騎  一片桐  一飯田  一はぶ  一永津一本永津ヲ赤津トス  一大島  此五人合五十騎  一諏訪  五十騎  一岡部丹後  十騎  一朝比奈監物  廿騎  一三浦右近  十騎  一小原  廿騎  一永井豊前  八十騎

右侍大将はわきぞなへうしろ備或は城をせめ取て番手又は先衆 、はなれてはたらく時は御先をも被仰付候就中小山田備中は御旗本の先衆なりさて又原隼人は敵の国深く御はたらきの時は一入後備になされ候子細は陣取の場所見合す事御家中の諸大将衆にすぐれたり他国にて山中などに道のしれざる処をも此隼人見積り道をふみ分る事前代より今に至る迄武田の家にも此一人也、さるほどに陣取の場所合戦の場所山川の案内なき所を原隼人よきと申され候へば諸人上下大小共に心よく存ずる也右信玄公御備のこと諸方御敵は越後輝虎新田足利小田原北条氏康氏政父子三州家康岐阜の信長或は飛弾越中各々押への為に全集ニハ抑信玄公云々以下ヲ(小池事付江州佐々木家勢州国司家破滅物語ノ事)トス北地スベテ小池ニ作ル信玄公御人数半分跡に指置半分召連らるゝ積、大形三段右に書記申候抑信玄公常の御出語に諸侍を思ふ事人間のたゞ喉のかはくに食物を好むごとくに存る事肝要なりと朝夕是を思召す去る程に山県三郎兵衛同心北地と申伊勢牢人身上十六貫取者也知行所悪しき所なりとて山県三郎兵衛に種々訴訟をいたすを大場民部左衛門と申山県賂人北地他国者なりとあなづり山県に申きかせず候扨又北地各々中のよき傍輩共に申きかせ、置き文をして腹を切る子細は他国より武田信玄公御家望て来る者はあれ共出る者は一人もなし此御家を出るほどなれば何ぞ武道に悪き事有かと余所の不審をうくるも口惜と申て自害なり傍輩共是を取さへつれば北地申は腹をきるなどゝいふ事を侍申出して二度止る事なしといふて自害す人々すがりて腹切にくければ膝のうへ犬ほへずと云所を散々に十二三刀付三日目に死す山県大に驚き目付横目申上ざる先に早々言上いたす信玄公殊の外御腹立是非に及ばず山県三郎兵衛迷惑いたし既に改易たるべきに原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市助三人の名所にて熊野の牛王ごわうのうらに誓紙を仕る北地五郎左衛門訴訟の旨不存由申上る其後信玄公聞召分られさらばとて其頼まれたる山県が内の者大場民部左衛門をよべとありて右三人原曽根三枝を以て御尋ある則又長坂長閑跡部大炊に目付衆二人横目衆二人差添られ委く尋ね給ひ其上にてもうろんに思召岩間大蔵左衛門をめして物かげで是をきけと被仰付御せんさくなり山県申上る如くいつれの口も大場無念にて山県に申きかせざるに付て大場一類ことごとく御成敗なり山県三郎兵衛御奉公申たるうち是ほど迷惑なること終に是なし其後信玄公仰出され候は信玄が思ふ事各々を思ふにあらず只信玄が身を思ふなり子細はあのごとくなる兵共をあつめ多く持候はいくさかたんといふこと也軍にかつは国を取ひろけんといふこと也国をとりひろげてこそ面々かた諸人大小上下共に加恩をくれてよろこばせんずれ所領を取て其上に又増知行を取、立身してこそ侍の本意なれ彼の本意の本と云は諸侍大小かせ者中間小者迄も遍ねく過分に思ひ存ずる様に仕るは大将の第一のことわざなるらん縦へば日月の光のごとし日光月光いづれか私に照し給ふぞ私なくてらすに日かげの有はおのれ々が科なり如件私なきを日輪、まりしてんと申奉るぞまりしてんは弓矢の神にてましますとてすでに軍配団扇を取つて神躰をあらはし給ふも私なき様に侍の事は不申下々までうつたへを申さばつげきたれとて二十人衆頭両人御中間頭両人に金子を二十両もたせ北地がとむらい仕たる甲州東郡清白寺清白寺ハ甲州山梨郡後屋敷村ニアリと申寺へつかはされげりケ様に諸侍を馳走なされ候といへども新式目三ケ条目に相そむき私にて他国のかよいを仕り候へば大剛の者共をもあらけなく御成敗なり是又尤の御法度にて候殊には御取立ありて御崇敬大形ならぬ山県をも右儀相違においては御成敗うたがいあるまじき様子是も尤の仕置にて候子細は他国の家をたゞしく聞に近江の国佐々木殿の家の破れたるはめがためがたハ目賀田ナリと申おとな佐々木殿御かげにて家中の諸侍歴々の傍輩ともを皆めがたが縁類にしてはゞめきて後は巳れか寄子よりこきうのあらそひにて寄子の理なれども主が時のはゞに任せて佐々木殿の御意をきかずめがたが居城佐々木殿と別々に成オープンアクセス NDLJP:70り家中のさだつを見て浅井備前と云ふ者佐々木殿を押し破る此備前はせがれの時やうさると申したるわらんべなり京極家の侍なれ共やうさるが父の代より京極を捨て佐々木殿に降参して被官に成り佐々木殿社参の時は右の浅井やうさるに太刀をもたせ給ふほど心易くつかひ給へど佐々木家の乱るゝ時刻を見合せ佐々木の知行をのつとりて今浅井備前となる去程に国持大将は譜代の大身をもあまりはゞめくをば押しつめてたゞ主君の御ため能く存る様になされ万事に能く調とゝのいたる御大将は信玄公にて留めたり又伊勢の国司の家の破るは国司の甥に木作こつくりとい七時則南伊勢の内木作といふ処に居城あり此木作が内者につげの三郎左衛門と申者有り此三郎左衛門人前にて人逢勝れたる男なりもとより武篇ぶへんもよき者にて巳れが身を一入ねたかき侍ねたかきハ直高キナリと存伊勢一国の内にては立身如何と分別するにより信長家老の滝川伊予と云ふ侍の所へ立ち入り時分を見合せ我身を持ち上ぐるならば日の出るごとくなる信長を頼みて尤もなりと相心得一人の分別にも及ばずとて思案するに木作こつくりの源城寺とてたゞ大かたならぬ俗儀のはりたる坊主ぼうずにて才覚利根りこん性発せいはつなる事結句右のつげの三郎左衛門にも増す程の出家なれば此坊主と三郎左衛門談合にて滝川伊予守をもつて信長へ内通いたし永禄十二年正月十日に南伊勢ほうくみ一本ニほうくみヲ河曲トスと云ふ所まで悉く信長発向して放火せしむるなり扨て三郎左衛門が子を伊勢のくもづ川のはたにて国司よりくしざしになさるゝ是は人質を捨て三郎左衛門立身の故なり扨て又其年の八月信長美濃尾張の人数を催ほし伊勢へ取りかゝる国司の居城は伊勢たけいと云ふ所なれども敵に奥まで押しこまれてはとておかはちと云ふ城に国司の籠り給ふ三ケ月目の十月右のつげ三郎左衛門木作りへ矢文を射て扱いにするされども前代にも伝へ聞くは国持の城へ籠りて扱いにするほとにて籠りたる大将の理に成りたる事さのみになし末代にも定て有難からん是によりて甲州一国の内に城普請なされず御かまへはせばき堀を浅く堀りてたゞひとへ也家老衆各打ち寄り諫めを申、御城少さふ御座候其うへそさうにていかゞに候と申、信玄仰せらるゝ、事の子細を分別してみよ国持が城へ籠りて運を開くことまれならん但主を持ちたる侍の後詰を頼みにする物は何ほども堅固なる地を丈夫にすること肝要なり三ケ国とも支配仕る大将が大なる城に一はいこもるほど人数を持つならば敵味方の国境にて二ツなく平地の合戦仕てはたすべきこと尤もなり人数多くして其合戦ならぬほどならば籠城仕りたるとも矢鉄炮のさまをくとり妻子をすてゝ走りにげん大将たらん者は兵を崇敬して法度を定め軍法を定め軍をせんことを朝夕の作事と相心得心に我一人にて普請を仕るは城を普請よりははる大作事なり是を大将の一人にて多人数のはたらきする所なりさるによつて大合戦かつせん二万三万にて勝ちたるをも信玄が勝ちと云ふ大将一人の覚悟をもつて諸人にかたせ諸人の勝ちを大将の勝ちといふ是れ大将の第一の願なり皆々諸侍老若共に此義参得仕れとなり然れども又た八日九日路遠国もろの境目の城にはいかにも堅固けんごなる地をみたて丈夫に普請を申付敵取りまくに付ては我後詰をしてかねて分別の合戦仕らんと申す事なり合戦も城をよくもたせねば後詰はならぬぞ後詰なければ合戦はならぬぞさあれば合戦と城取りは車の両輪の軍法なりと法性院信玄公御物語りを承り是を感じ奉る扨て又右伊勢の国司信長と扱ひのすみ様は国司は昔のたけいをやめ伊勢の内山が三瀬と云ふ所に隠居して信長二番目の子息お茶筌ちやせんと云ふを国司の聟にして国司と名乗り伊勢の国司は日本三国司の内二番の家高き国司也四国伊予伊勢奥州三国司と聞及び候、但し某無学にて委しくは不存候右の伊勢国司御前方は近江の佐々木殿息女なり此御前の腹に男子一人ましますといへども是は殊の外ふとりたる人にて身の働きもならざるに付ふとり御所と名付く然もうつけ一本然も虚け人なれバトアリにてましますされども信長二番目の子息お茶筌をふとり御所の妹聟にして国司をお茶筌にゆづり給へば三瀬の御所をば大御所ふとり御所をば中御所と申すお茶筌を御本所と申してこれほんの国司なり御本所をばたけいにはおかずして伊勢の府内と云ふ所に置き給ふ国司の衆尽くお茶筌を主とあふくといへども内心は是をそねみてくつがへさんと存ずればこそ元亀三壬申年極月廿二日遠州味方が原にて信長家康両人に信玄公勝ち給ひてより則ち遠州形部おさかへにて御越年ありければ正月四日に伊勢三瀬の大御所よりとや鳥屋とやのお石見いはみと申す侍を使者として天下に御旗立てらるゝに付ては御舟を進上申すべしとかたく誓紙を被成国司より仰らるゝ長島の一向宗も長遠寺をもつて申しいるゝに付此衆いづれも信玄公へ心をよせ奉る然れども天正元癸酉年四月十二日に信玄公御他界ありされども勝頼公天正二年二月織田信長居城、国の内美濃へオープンアクセス NDLJP:71発向あり同国に信玄公御代ゟ秋山伯耆守を指置き岩村の城へ向けて信長方より城或は取出際限なく仕置きたるを二月三月四月三ケ月の内に一ケ所も不残尽く攻めおとし給ふ又其年七月遠州高天神小笠原与八郎と申す家康寄騎よりきの侍籠りたる城あり此城を七月八月両月の間に攻取て勝頼公甲府へ御帰陣なさる勝頼公の弓箭結句信玄公の御ほこさきよりつよくましますといたらぬ者は申すといへども信玄公御威勢ほどなき故か同年の秋伊勢長島へ信長取つむる信玄公御他界故長島もおく力なき故終には長島をあけ渡し一向宗なる故大坂へ立退就中天正三年五月廿一日に信長家康に勝頼公三州長篠にて負給まけたまひてより越前も信長手に入兼て四年以前に信玄公御在世の時国司使を進上申され候事顕れてあればこそ織田掃部と云者を信長よりお茶筌のおとなに申付られたるを右のつげ三郎左衛門滝川兵部両人にて信長へさゝへさゝへハ讒ナリ織田掃部を当年四月廿五日に伊勢田丸と申所にてひよき大膳といふ伊勢先方の侍に申付きらする此科は国司方の親類を掃部養たると云科也是は天正四年四月なり其年の霜月廿五日に三瀬にて大御所に腹をきらする討手はかるの左京とて国司譜代の衆也滝川三郎兵衛と申者も国司の討手なり是は右に申源城寺と申木作の出家帰り也つげ三郎左衛門と談合して信長を伊勢へ引入たる忠節故滝川か同名にして滝川三郎兵衛つげの三郎左衛門と両人お茶筌のおとなに成るさて同月同日長野殿、式部殿とて三瀬の御所の子息お茶筌の為に小舅こしうどなるを田丸において殺 、さかなひ兵庫国司のむこ其親ばんほをも殺す不審也国司の討手両人への内かるの左京と申者あくる年惣身のすくむ病つき死す是れは国司より恩をうけたる人なればはやく如件源城寺いかに出家也とも末は定てよく有まじ、つげ三郎左衛門も定てあしかるへし譜代の主君に逆心したる人は何方を聞くにも終によき人一人としてなし能々分別つかまつれ右の書き立て置く諸侍へ勝頼公御恵みよき様に諫め御申しあるべく候去年長篠にて悉く討ち死候へとも未だ残りて少し居られ候間信玄公御代の衆にも当代の衆にも過分と存ずる様になされ可然候長坂長閑老跡部大炊殿是れは佐々木殿譜代衆上方より当年罷下候其物語りとて佐々木殿御雑談をもつて書するなり

越後長尾謙信家老侍大将衆  一柿崎  一かぢ  一柴田  一三宝寺  一あろう  一斎藤  一黒川  一長尾遠江  一竹又  一いろへ  一本城清七郎  一あかわ  一かんどう  一北条  一直江  一甘数近江守  一長尾小四郎  一長尾義景  是は謙信あねむこなり  

川田豊前守  一す田  一安田  一中条  此衆輝虎侍太将分なり是は譜代衆此外越中衆東上州衆これあり謙信家中にて承り及候衆如件謙信旗本いつの合戦にも三百騎許りにて二の手三の手に御入り候宇佐美駿河守謙信に弓矢指南の武士なり

小田原北条氏政衆侍大将  一北条陸奥守  千九百騎  一北条安房守  千四百騎  一北条右衛門佐  三百騎  一北条げんあん源庵  百五十騎  一北条美濃守 是は助五郎とて信玄公御代に甲州へ人質に参り候人なり 二百騎  一松田  八百騎  一大道寺  九百騎  一遠山  千騎  一山門全集ニ山門伊予守ヲ遠山紀伊守トス  百五十騎  一山門伊与守  五十騎  一葉賀伯耆守  二百五十騎  一内藤大和守 百騎  一遠山左衛門 二百騎  一伊勢大和守  二百騎  一飛長 人数追て可一本ニ飛長ヲ富永トス  一清水人数追て可清水内膳  一伊勢兵庫 百廿騎  一笠原 人数追て可之  一北条左衛門佐  百五十騎  一北条氏政旗本  五百騎  右是は北条家譜代衆なり譜代衆ばかりにて信玄公惣人数ほどの積りなり此外碓氷さくら、こがね、とけ、とうかね、をし、ふかや、松山、新田、館林  各北条へ降参の侍衆又是ほど可之也

浜松家康衆  一家康子息三郎 此もり平岩七之助  一酒井左衛門尉  一中根平左衛門  一柴田七九郎 一本田平八郎 是は上村出羽におとらぬ者なり   一大須賀五郎左衛門  一榊原小平太 是家康御座をなをしたる者なり   一鳥井彦右衛門  一大久保七郎右衛門  一松平左近  一本田百介  一石川伯耆守  是は酒井左衛門におとらぬものなり   一酒井与四郎 是は家康を取立の者乃子なり   一水野宗兵衛 是は家康母方乃伯父なり   一土居豊後  一安部善九郎  一本田作左衛門  一内藤弥次右衛門  一内藤三左衛門  一三宅惣右衛門  一戸田三郎右衛門  一上村出羽守 是は家康内大功のものなり   一菅沼大膳

三河家康江降参之侍  一牛久保  一二れん木  一いな  一野田  一設楽したら  一長沢  オープンアクセス NDLJP:72一片原  一西郡  一下西郡  一竹谷  一足助  一西江一本ニ西江ヲ西郷トス  一桜井  右之外三州の内にて信玄公江降参申すは一つくで  一だみね  一長篠  是三人は信玄公へ御味方山家三方と云ふ山県三郎兵衛相備なり

此書立をもつて分別なされ家康内へ智畧又は人衆積り尤なり右甲州御人数冬の陣には越後大雪故押へいらずして信州勢をめされ候十月より御陣には信玄公御人数右の積りより多勢なり仍て如

  天正五年丁丑極月廿三日 高坂弾正

       長坂長閑老

       跡部大炊助殿参