太平記/巻第三十八

巻第三十八

314 彗星客星事付湖水乾事

康安二年二月に、都には彗星・客星同時に出たりとて、天文博士共内裏へ召れて吉凶を占ひ申けり。「客星は用明天皇御宇に、守屋仏法を亡さんとせし時、始て見へたりけるより、今に至るまで十四箇度、其内二度は祥瑞にて、十二度は大凶也。彗星は皇極天王の御宇に、豊浦大臣の子、蘇我入鹿が乱を起して、中臣大兄皇子並中臣鎌子と合戦をしたりし時、始て此星出たりしより、今に至迄八十六箇度、一度も未災難ならずと云事なし。尤天下の御慎にて候べし。」と、博士一同に勘申ければ、諸臣皆色を失て、「さればよ、此乱世の上には、げにも世界国土が金輪際の底へ落入か、不然は異国の蒙古寄来て、日本国を打取かにてこそあらめ。さる事有まじき世共不覚。」と、面々に申合れけり。誠に天地人の三災同時に出来ぬと覚て、去年の七月より日々に二三度の地震も未休、又今年の六月より同十一月の始まで旱魃して、五穀も不登、草木も枯萎しかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥に吻のみならず、人民共の飢死ぬる事、所々に数を不知。此時近江の湖も三丈六尺干たりけるに、様々の不思議あり。白髭の明神の前にて、奥に二人して抱許なる桧木の柱を、あはひ一丈八尺づゝ立双べて、二町余に渡せる橋見へたり。「古人の語り伝たる事もなし、古き記録にも不載。是は何様竜宮城の道にてぞ有覧。」と云沙汰して、見る人日々に群集せり。又竹生島より箕浦まで水の上三里、入譱瑙なる切石を広さ二丈許に平に畳連ねて、二河白道も角やと覚たる道一通顕出たり。是も如何様竜神の通路にてぞ有らんとて、蹈では渡る人なし。只傍の浦に船を浮て見る人如市也。此湖七度まで桑原に変ぜしを我見たりと、白髭明神、大宮権現に向て被仰けると云古の物語あれば、左様の桑原にやならんずらんと見る人奇み思へり。天地の変は既に如此、人事の変又さこそあらんずらめと思処に、国々より早馬を打て、宮方蜂起したりと、告る事曾て休時なし。


315 諸国宮方蜂起事付越中軍事

山陽道には同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越て国々へ勢を差分つ。先一方へは、時氏子息左衛門佐師義を大将にて、二千余騎、備前・備中両国へ発向す。一勢は備前仁万堀に陣を取て敵を待に、其国の守護勢、松田・河村・福林寺・浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合ては叶はじとや思けん。又讃岐より細河右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待けん。皆城に楯篭て未曾戦。一勢は多治目備中守、楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵すまして、水も兵粮も卓散なる松山の城へ、多治目・楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀可戦様無して、備前の徳倉の城へ引退く刻、郎従赤木父子二人落止て、思程戦て遂に討死してけり。依之敵勝に乗て国中へ乱入て、勢を差向々々責出すに、一儀をも可云様無れば、国人一人も順ひ不付云者なし。只陶山備前守許を、南海の端に添て僅なる城を拵て、将軍方とては残りける。備後へは、富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞八百余騎、出雲より直に国中へ打出たるに、江田・広沢・三吉の一族馳著ける間、無程二千余騎に成にけり。富田其勢を合て、宮下野入道が城を攻んとする処に、石見国より足利左兵衛佐直冬、五百騎許にて富田に力を合戦と、備後の宮内へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮下野入道の許へ使に立て被仰けるは、「天下の事時刻到来して、諸国の武士大略御方に志を通ずる処に、其方より曾承る旨なき間に、遮て使者を以て申也。天下に人多といへ共、別して憑思奉る志深し。今若御方に参じて忠を被致候はゞ、闕所分已下の事に於ては毎事所望に可随。」とぞ宣ひ遣れける。宮入道道山先城へ使者の僧を呼入て点心を調、礼儀を厚して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼禅門道山、僧に向て申けるは、「天下に一人も宮方と云人なく成て、佐殿も無憑方成せ給ひたらん時、さりとては憑ぞと承らば、若憑れ進する事もや候はんずらん。今時近国の者共多く佐殿に参りて、勢付せ給ふ間、当国に陣を召れて参れと承らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。悪し其儀ならば討て進せよとて、御勢を向られば、尸は縦御陣の前に曝さる共、魂は猶将軍の御方に止て、怨を泉下に報ぜん事を計ひ候べし。抑加様の使などには御内外様を不云、可然武士をこそ立らるゝ事にて候に、僧体にて使節に立せ給ふ条、難心得こそ覚て候へ。文殊の、仏の御使にて維摩の室に入り、玄奘の大般若を渡さんとて流沙の難を凌しには様替りて、是は無慚無愧道心の御挙動にて候へば、僧聖りとは申まじ。御頚を軈て路頭に懸度候へ共、今度許は以別儀ゆるし申也。向後懸る使をして生て帰るべしとな覚しそ。御分誠に僧ならば斯る不思議の事をばよもし給はじ。只此城の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌を禅僧に作立られてぞ、是へはをはしたるらん。やゝ若党共、此僧連て城の有様能々見せて後、木戸より外へ追出し奉れ。」とて、後の障子を荒らかに引立て内へ入れば、使者の僧今や失はるゝと肝心も身にそはで、這々逃てぞ帰りける。「此使帰らば佐殿定て寄せ給はんずらん。先ずる時は人を制するに利ありとて、逆寄に寄て追散せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百余騎を差副、佐殿の陣を取て御坐宮内へ押寄せ、懸立々々責けるに、佐殿の大勢共、立足もなく打負て、散々に皆成にければ、富田も是に力を落して、己が本国へぞ帰りにける。直冬朝臣、宮入道と合戦をする事其数を不知。然共、直冬一度も未打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札に書て、道の岐にぞ立たりける。直冬はいかなる神の罰にてか宮にはさのみ怖て逃らん侍大将と聞へし森備中守も、佐殿より前に逃たりと披露有ければ、高札の奥に、楢の葉のゆるぎの森にいる鷺は深山下風に音をや鳴らん但馬国へは、山名左衛門佐・舎弟治部太輔・小林民部丞を侍大将にて、二千余騎、大山を経て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬国守護仁木弾正少弼・安良十郎左衛門、将軍方にて楯篭たる城未落ざりける間、長九郎左衛門尉・安保入道信禅已下の宮方共、我国を閣て、他国へ越ん事を不心得。さらば小林が勢許にても、播磨へ打越んと企る処に、赤松掃部助直頼大山に城を構て、但馬の通路を差塞ぎける程に、小林難所を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護仁木兵部太輔義尹、兼て在国して待懸たる事なれば、軈て合戦有ぬとこそ覚けるに、楚忽に軍しては中々悪かりぬとや被思けん、和久の郷に陣を取て、互に敵の懸るをぞ相待ける。「丹波は京近き国なれば暫くも非可閣、急大勢を下して義尹に力を合せよ。」とて、若狭の守護尾張左衛門佐入道心勝・遠江守護今河伊予守・三河守護大島遠江守三人に、三箇国の勢を相副て三千余騎、京都より差下さる。其勢已に丹波の篠村に著しかば、当国の兵共、心を両方に懸て、何方へか著ましと思案しける者共、今は将軍方ぞ強からんずらんと見定て、我先にと馳付ける程に、篠村の勢は日々に勝て無程五千余騎に成にけり。山名が勢は纔に七百余騎、国遠して兵粮乏く馬・人疲れて城の構密しからず。角ては如何怺べき、聞落にぞせんずらんと覚ける処に、小林右京亮伯耆国を出しより、「今度天下を動す程の合戦をせずは、生て再び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少も非可騒、一所にて討死せんと、気を励し心を一にする兵共、神水を飲て已に篠村を立と聞しかば、何くにても広みへ懸合せて、組打に討んと議しける間、篠村の大勢是を聞て、却て寄られやせんずらんと、二日路を隔たる敵に恐て一足も先へは不進、木戸を構へ逆木を引て、用心密くては居たりけれ共、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退ければ、「御敵をば早追落て候。」とて、気色ばうてぞ帰洛しける。越中には、桃井播磨守直常信濃国より打越て、旧好の兵共を相語ふに、当国の守護尾張大夫入道の代官鹿草出羽守が、国の成敗みだりなるに依て、国人挙て是を背けるにや、野尻・井口・長倉・三沢の者共、直常に馳付ける程に、其勢千余騎に成にけり。桃井軈て勢ひに乗て国中を押すに手にさわる者なければ、加賀国へ発向して富樫を責んとて打出ける。能登・加賀・越前の兵共是を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千余騎越中国へ打越て三箇所に陣を取る。桃井はいつも敵の陣未取をほせぬ所に、懸散を以て利とする者なりければ、逆寄に押寄て責戦に、越前の勢一陣先破て、能登・越中の両陣も不全、十方に散てぞ落行ける。日暮れば桃井本の陣へ打帰て、物具脱で休けるが、夜半計に些可評定事ありとて、此陣より二里許隔たる井口が城へ、誰にも角とも不知して只一人ぞ行たりける。此時しも能登・加賀の者共三百余騎打連て、降人に出たりける。執事に属して、大将の見参に入んと申間、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習の人に尋ぬれ共、「何くへか御入候ぬらん。未宵より大将は見へさせ給はぬ也。」とぞ答ける。陣を並べたる外様の兵共是を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒て、「我も何くへか落行まし。」と物具を著もあり捨るもあり、馬に乗もあり、乗ぬもあり、混ひしめきにひしめく間、焼捨たる火陣屋に燃著て、燎原の焔盛なり。是を見て、降人に出たりつる三百余騎の者共、「さらばいざ落行敵共を打取て、我が高名にせん。」とて、箙を敲き時を作て、追懸々々打けるに、返合せて戦んとする人なければ、此に被追立彼に被切伏、討るゝ者二百余人生虜百人に余れり。桃井は未井口の城へも不行著、道にて陣に火の懸りたるを見て、是は何様返忠の者有て、敵夜討に寄たりけりと心得て、立帰る処に、逃る兵共行合て息をもつきあえず、「只引せ給へ、今は叶まじきにて候ぞ。」と申合ける間不及力、桃井も共に井口の城へ逃篭る。昼の合戦に打負て、御服峯に逃上りたる加賀・越前の勢共、桃井が陣の焼るを見て、何とある事やらんと怪く思ふ処に、降人に出て、心ならず高名しつる兵共三百余騎、生捕を先に追立させ、鋒に頭を貫て馳来り、「如鬼神申つる桃井が勢をこそ、我等僅の三百余騎にて夜討に寄て、若干の御敵共を打取て候へ。」とて、仮名実名事新しく、こと/゛\しげに名乗申せば、大将鹿草出羽守を始として国々の軍勢に至迄、「哀れ大剛の者共哉。此人々なくは、争か我等が会稽の恥をば濯がまし。」と、感ぜぬ人も無りけり。後に生捕の敵共が委く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒るゝ処に土を掴む風情をしたりけるよとて、却て悪み笑れける。


316 九州探題下向事付李将軍陣中禁女事

筑紫には、小弐・大友以下の将軍方の勢共、菊池に追すへられて、已に又九州宮方の一統に成ぬと見へければ、探題を下して、小弐・大友に力を合せでは叶まじとて、尾張大夫入道の子息左京大夫氏経を、九州の探題に成てぞ被下ける。左京大夫先兵庫に下て、四国・中国の勢を催しけれ共、付順ふ勢も無りければ、さりとては道より非可引返とて、僅に二百四五十騎の勢にて、已に纜を解けるに、左京大夫の屋形船を始として、士卒の小船共に至まで、傾城を十人二十人のせぬ船は無りけり。磯に立双で是を見物しける者共の中に、些こざかしげなる遁世者の有けるが、傍への人々に向て申けるは、「筑紫九箇国の大敵を亡さんとて、討手の大将を承る程の人の、是程物を知らでは、何としてか大功を成るべき。夫大敵に向て陣を張り、戦を決せんとする時、兵気と云事あり。此兵気敵の上に覆て立時は、戦必勝事を得、若陣中に女多く交てある時は、陰気陽気を消す故に、兵気曾不立上。兵気立ざれば、縦大勢なりといへ共、戦勝事を不得いへり。されば昔覇陵の李将軍と云ける大将、敵国に赴て陣を張り旅を調へて、単于と戦を決せんとしけるに、敵僅に三万余騎、御方は是に十倍せり。兵気定て敵の上に覆らんと思て、李将軍先高山の上に打上り、両方の陣を見るに、御方の陣にあがらんとする兵気、陰の気に押れて、立んとすれ共不立得。李将軍倩是を案ずるに、何様是は我方の陣に女交て、隠れ居たればこそ、加様には有らんと推して陣中をさがすに、果して陣中に女隠れて三千余人交り居たり。さればこそ是故に兵気は不上けりとて、悉此女を捕へて、或は水に沈め或は追失て、後又高き山に打上て、御方の陣を見に、兵気盛に立て敵の上に覆へり。其後兵を進めて闘を決するに、敵四方に逃散て勝事を一時に得しかば、李将軍と云れて武功天下に聞へたり。智ある大将は加様にこそあるに、大敵の国に臨む人の兵をば次にして、先女を先立給ふ事不被心得。」と難じ申けるが、果して無幾程高崎の城にも不怺、浅猿き体にて上洛し給ひしが、面目なくや被思けん、尼崎にて出家して諸国流浪の世捨人と成にけり。


317 菊池大友軍事

左京大夫已に大友が館に著ぬと聞へければ、菊池肥後守武光、敵に勢の著ぬ先に打散せとて、菊池彦次郎・城越前守・宇都宮・岩野・鹿子木民部大輔・下田帯刀以下勝れたる兵五千余騎を差副て、探題左京大夫を責ん為に、九月二十三日豊後国へ発向す。探題左京大夫是を聞に、「抑我九州静謐の為に被下たる者が、敵の城へ不寄して、却て敵に被寄たりと京都に聞へんずる事、先武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待までもあるまじ。路次に馳向て戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未幼稚にて今年十一歳に成けるを大将にて、大宰小弐・舎弟筑後二郎・同新左衛門尉・宗像大宮司・松浦一党都合其勢七千余騎にて、筑前国長者原と云所に馳向て、路を遮てぞ待懸たる。同二十七日に菊池彦二郎五千余騎を二手に作り長者原へ押寄て戦けるに、岩野・鹿子木将監・下田帯刀已下、宗徒の勇士三百余騎討れて、其日の大将菊池彦次郎、三所まで疵を被りければ、宮方の軍勢已に二十余町引退く。すはや打負ぬと見へける処に、城越前守五百余騎、入替て戦けるに、小弐筑後二郎・同新左衛門尉、二人共に一所にて討れぬ。其外松浦・宗像大宮司が一族・若党四百余人討れにければ、探題・小弐・大友二度目の軍に打負て、皆散々に成にけり。菊池已に手合の軍に打勝しかば、探題の勇威も恐るに不足と蔑て、菊池肥後守武光悪手の兵三千余騎を卒して、舎弟彦次郎が勢に馳加て、豊後の府へ発向す。是までも猶探題・小弐・大友・松浦・宗像が勢は七千余騎有けるが、菊池に気を呑れて、懸合の合戦叶まじとや思けん、探題と大友とは、豊後の高崎城に引篭り、大宰小弐は、岡の城に楯篭り、大宮司は棟堅の城に篭て、嶮岨を命に憑ければ、菊池は豊後の府に陣を取り、三方の敵を物共せず、三の城の中を押隔て、今年は已に三年まで、遠攻にこそしたりけれ。抑小弐・大友は大勢にて城に篭り、菊池は小勢にて是を囲む。菊池が城必しも皆剛なるべからず、小弐・大友が勢必しも皆臆病なるべきに非ず。只士卒の剛臆は大将の心による故に、九国は加様に成にける也。


318 畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事

筑後には宮方蜂起すといへ共、東国は無程静りぬ。去年より畠山入道々誓・舎弟尾張守義深、伊豆の修禅寺に楯篭て東八箇国の勢と戦けるが、兵粮尽て落方も無りければ、皆城中にて討死せんとす。左馬頭殿より使者を以て、先非を悔て子孫を思はゞ、首を延て可降参由被仰けるを、誠ぞと信じて道誓は禅僧になり、舎弟尾張守は、伊豆国の守護職還補の御教書を給て、九月十日降参したりけるが、道誓は伊豆の府に居て、先舎弟尾張守を、鎌倉左馬頭の御坐する箱根の陣へぞ参らせける。旧好ある人、万死を出て二度び見参に入事の嬉しさよなど云て一献を勧め、此程無情あたりつる傍輩は、いつしか媚を諛て、言を卑しくし礼を厚して、頻に追従をしける間、門前に鞍置馬の立止隙もなく、座上に酒肴を置連ねぬ時も無りけり。角て三四日経て後、九月十八日の夜、稲生平次潜に来て道誓に囁きけるは、「降参御免の事は、元来被出抜事に候へば、明日討手を可被向にて候なる。げにも聞に合せて、豊島因幡守俄に陣を取易て、道を差塞ぐ体に見へて候。今夜急何くへも落させ給べし。」とぞ告たりける。道誓聞も不敢、舎弟式部大輔に屹と目加せしけるが、仮初に出る由にて、中間一人に太刀持せ、兄弟二人徒にて、其夜先藤沢の道場までぞ落たりける。上人甲斐々々敷馬二疋、時衆二人相副て、夜昼の堺もなく、馬に鞭を進めて上洛しけるをば、知人更にも無りけり。舎弟尾張守義深は、箱根の御陣に有けるが、翌の夜或時衆の斯る事と告けるに驚て、さては我も何くへか落なましと案ずれ共、東西南北皆道塞りて可落方も無りければ、結城中務大輔が陣屋に来て、平に可憑由をぞ宣ひける。是を隠さんずる事は、至極の難義なれ共、弓矢取身の習、人に被憑て叶はじと云事や可有と思ければ、長唐櫃の底に穴をあけて気を出し、其櫃の中に臥させて、数十合舁連ねたる鎧唐櫃の跡にたて、態と鎌倉殿の御馬廻に供奉して、尾張守をべ夜に紛て、藤沢の道場へぞ送りける。命程可惜者はなかりけり。此人遂には御免有て、越前の守護に被補、国の成敗穏かにて土民を安ぜしかば、鰐の淵を去り、蝗の境を出る許也。遊佐入道性阿は、主の被落妝を軈て知たりけれ共、暫く人にあひしらひて、主を何くへも落延させん為に少も騒たる気色を不見、碁・双六・十服茶など呑て、さりげなき体にて笑戯て居たりければ、郎従共も外様の人も、可思寄様無りけれ共、遂に隠るべき事ならねば、畠山兄弟落たりと沙汰する程こそ有けれ。軈て討手を被向と聞へければ、遊佐入道は禅僧の衣を著て、只一人京を志てぞ落行ける。兔角して湯本まで落たりけるが、行合人に口脇なる疵を隠さん為に、袖にて口覆して過けるを見る人中々あやしめて、帽子を脱せ袖を引のけゝる間、口脇の疵無隠顕れて可遁様無りければ、宿屋の中門に走上て、自喉ぶへ掻放ち返す刀に腹切て、袈裟引被きて死にけり。江戸修理亮は竜口にて生捕れて斬れぬ。其外此に隠れ、彼に落行ける郎従共六十余人、或は被捜出て切れ、或は被追懸腹を切る。目も当られぬ有様也。畠山入道兄弟、無甲斐命助りて、七条の道場へ夜半許に落著たりけるを、聖二三日労り奉て、道の案内者少々相副て、行路の資など様々に用意して南方へぞ被送ける。道誓暫く宇知郡の在家に立寄て、「楠が方へ降参の綸旨を申てたび候へ。」と、宣ひ遣されたりけれども、楠さしも許容の分無りければ、宇知郡にも不隠得都へ可立帰方もなし、南都山城脇辺に、とある禅院律院、或は山賎の柴の庵、賎士がふせ屋のさびしきに、袂の露を片敷て、夜を重ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬ許にて、朝三暮四の資に心有人もがなと、身を苦しめたる有様、聞に耳冷く、見に目も充られず。幾程もなく、兄弟共に無墓成けるこそ哀なれ。人間の栄耀は風前塵と白居易が作り、富貴草頭露と杜甫が作りしも理り哉。此人々去々年の春は、三十万騎が大将として、南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇で、靡かぬ草木も無りしに、いつしか三年を不過、乍生恥を曝して、敵陣の堺に吟ひぬる事、更に直事とは不覚。此人に被出抜討れし新田左兵衛佐義興怨霊と成て、吉野の御廟へ参たりけるが、「畠山をば義興が手に懸て、乍生軍門に恥を曝さすべし。」と奏し申ける由、先立て人の夢に見て、天下に披露有しも訛にては無りけりと、今こそ思知れたり。


319 細川相摸守討死事付西長尾軍事

讃岐には細川相摸守清氏と細川右馬頭頼之と、数月戦けるが、清氏遂に討れて、四国無事故閑りにけり。其軍の様を伝聞に、相摸守四国を打平げて、今一度都を傾て、将軍を亡し奉らんと企て、堺の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸守がいとこの兵部太輔淡路国の勢を卒して、三百余騎にて馳著。其弟掃部助、讃岐国の勢を相催て五百余騎にて馳加る。小笠原宮内大輔、阿波国の勢を卒して、三百余騎にて馳著ける間、清氏の勢は無程五千余騎に成にけり。其比右馬頭頼之は、山陽道の蜂起を静んとて、備中国に居たりけるが、此事を聞て、備中・備前両国の勢千余騎を卒し、讃岐国へ押渡る。此時若相摸守敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦も利あるまじかりしを、右馬頭飽まで心に智謀有て、機変時と共に消息する人也ければ、兼て母儀の禅尼を以て、相摸守の許へ言遣けるは、「将軍群少の讒佞を不被正、貴方無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝に言無して寇讐に恨有し事、頼之尤其理に服し候き。乍去、故左大臣殿も、仁木・細川の両家を股肱として、大樹累葉の九功を光栄すべしとこそ被仰置候しに、一家の好を放て敵に降り、多年の忠を捨、戦を被致候はん事、亡魂の恨苔の下まで深く、不義の譏り世の末までも不可朽。頼之苟も此理を存ずる故に、全く貴方と合戦を可致志を不廻。往者不尤と申事候へば、御憤今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ御参候へ。御分国已下、悉日来に不替可申沙汰にて候。若又其れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨て備中へ可罷返候。」言を和げ礼を厚して、頻に和睦の儀を請れけるを、相摸守心浅信じて、問答に日数を経ける間に右馬頭中国の勢を待調へ城郭を堅く拵て、其後は音信も無りけり。相摸守の陣は白峯の麓、右馬頭の城は歌津なれば、其あはひ僅に二里也。寄やする待てや戦ふと、互に時を伺て数日を送りける程に、右馬頭の勢、太略遠国の者共なれば、兵粮につまりて窮困す。角ては右馬頭は讃岐国には怺じと見へける程に、結句備前の飽浦薩摩権守信胤宮方に成て、海上に押浮、小笠原美濃守、相摸守に同心して、渡海の路を差塞ける間、右馬頭の兵は日々に減じて落行き、相摸守の勢は国々に聞へて夥し。只魏の将司馬仲達が、蜀の討手に向て、戦はで勝事を得たりけん、其謀に相似たり。七月二十三日の朝、右馬頭帷帳の中より出て、新開遠江守真行を近付て宣ひけるは、「当国両陣の体を見るに、敵軍は日々にまさり、御方は漸々に減ず。角て猶数日を送らば、合戦難儀に及ぬと覚る。依之事をはかるに宮方の大将に、中院源少将と云人、西長尾と云所に城を構てをはすなる。此勢を差向て可攻勢を見せば、相摸守定て勢を差分て城へ入べし。其時御方の勢城を攻んずる体にて、向城を取て、夜に入らば篝を多く焼捨てこと道より馳帰り、軈て相摸守が城へ押寄せ、頼之搦手に廻りて先小勢を出し、敵を欺く程ならば、相摸守縦一騎なり共懸出て、不戦云事有べからず。是一挙に大敵を亡す謀なるべし。」とて、新開遠江守に、四国・中国の兵五百余騎を相副、路次の在家に火を懸て、西長尾へ向られける。如案相摸守是を見て、敵は西長尾の城を攻落して、後へ廻らんと巧けるぞ。中院殿に合力せでは叶まじとて、舎弟左馬助、いとこの掃部助を両大将として、千余騎の勢を西長尾の城へ差向らる。新開元来城を攻んずる為ならねば、態と日を暮さんと、足軽少々差向て、城の麓なる在家所々焼払て、向陣をぞ取たりける。城は尚大勢なれば、哀れ新開が寄て責よかし。手負少々射出して後、一度にばつと懸出て、一人も不残討留んとぞ勇ける。夜已に深ければ、新開向陣に篝を多く焼残して、山を超る直道の有けるより引返して、相摸守の城の前白峯の麓へ押寄る。兼て定めたる相図なれば、同二十四日の辰刻に、細川右馬頭五百余騎にて搦手へ廻り、二手に分れて時の声をぞ挙たりける。此城元来鳥も難翔程に拵たれば、寄手縦如何なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易可攻落城ならず。其上新開、西長尾より引帰ぬと見へば、左馬助・掃部助軈て馳帰て、寄手を追掃はん事、却て城方の利に成べかりけるを、相摸守はいつも己が武勇の人に超たるを憑て、軍立余りに大早なる人なりければ、寄手の旗の手を見ると均く、二の木戸を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷の小袖引せたをりて、鎧許を取て肩に抛懸て、馬上にて上帯縮て、只一騎懸出給へば、相順ふ兵三十余騎も、或はほうあてをして未胄をも不著、或は篭手を差して未鎧を不著、真前に裹連たる敵千余騎が中へ破て入る。哀れ剛の者やとは乍見、片皮破の猪武者、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守敵を物とも思はざりけるも理り哉。寄手千余騎の兵共、相摸守一騎に懸分られて、魚鱗にも不進鶴翼にも不囲得、此の塚の上彼の岡に打上りて、馬人共に辟易せり。相摸守は鞍の前輪に引付て、ねぢ頚にせられける野木備前次郎・柿原孫四郎二人が首を、太刀の鋒に貫て差挙げ、「唐土・天竺・鬼海・太元の事は国遠ければ未知、吾朝秋津島の中に生れて、清氏に勝る手柄の者有とは、誰もやはいふ。敵も他人に非ず、蓬く軍して笑はるな。」と恥しめて、只一騎猶大勢の中へ懸入給。飽まで馬強なる打物の達者が、逃る敵を追立々々切て落せば、其鋒に廻る者、或は馬と共に尻居に打居られ、或は甲の鉢を胸板まで被破付、深泥死骸に地を易たり。爰に備中国の住人真壁孫四郎と備前国の住人伊賀掃部助と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引けるを、相摸守追付て切んと、諸鐙を合せて責られける処に、陶山が中間そばなる溝にをり立て、相摸守の乗給へる鬼鹿毛と云馬の、草脇をぞ突たりける。此馬さしもの駿足なりけれ共、時の運にや曵れけん一足も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守は近付て、敵の馬を奪はんと、手負たる体にて馬手に下り立ち、太刀を倒に突て立れたりけるを、真壁又馳寄せ、一太刀打ち当倒んとする処に、相摸守走寄て、真壁を馬より引落し、ねぢ頚にやする、人竜礫にや打つと思案したる様にて、中に差上てぞ立れたる。伊賀掃部助高光は懸合する敵二騎切て落し、鎧に余る血を笠符にて押拭ひ、「何くにか相摸殿のをはすらん。」と東西に目を賦る処、真壁孫四郎を中に乍提、其馬に乗んとする敵あり。「穴夥し。凡夫とは不見、是は如何様相摸殿にてぞをはすらん。是こそ願ふ処の幸よ。」と思ければ、伊賀掃部助畠を直違に馬を真闇に馳懸て、むずと組で引かづく。相摸守真壁をば、右の手にかい掴で投棄、掃部助を射向の袖の下に押へて頭を掻んと、上帯延て後に回れる腰の刀を引回されける処に、掃部助心早き者なりければ、組と均く抜たりける刀にて相摸守の鎧の草摺はねあげ、上様に三刀さす。刺れて弱れば刎返して、押へて頚をぞ取たりける。さしもの猛将勇士なりしか共、運尽て討るゝを知人更に無りしかば、続て助る兵もなし。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方もなし。其身は深田の泥の土にまみれて、頚は敵の鋒にあり。只元暦の古、木曾義仲が粟津の原に打れ、暦応二年の秋の初、新田左中将義貞の足羽の縄手にて討れたりし二人の体に不異。西長尾の城に向られたりつる左馬助、二十四日の夜明て後、新開が引帰したるを見て、「是は如何様相摸殿御陣の勢を外へ分させて、差違ふて城へ寄んと忻けるを。軍今は定て始りぬらん。馳返て戦へ。」とて、諸鐙に策をそへて、千里を一足にと馳返り給へば、新開道に待受て、難所に引懸て平野に開合せ、入替々々戦たり。互に討つ討れつ、東西に地を易へ、南北に逢つ別つ、二時許戦て、新開遂に懸負ければ、左馬助・掃部助兄弟、勝時三声揚させて、気色ばうたる体にて、白峯城へ帰給ふ。斯る処に笠符かなぐり捨て、袖・甲に矢少々射付られたる落武者共、二三十騎道に行合たり。迹に追著て、「軍の様何と有けるぞ。」と問給へば、皆泣声にて、「早相摸殿は討れさせ給て候也。」とぞ答へける。「こは如何。」とて、城を遥に向上たれば、敵早入替ぬと覚て、不見し旗の紋共関櫓の上に幽揚す。重て戦んとするに無力、楯篭らんとするに城なければ、左馬助・掃部助、落行勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其国に志有し兵共、此事を聞て、何しか皆心替しければ、淡路にも尚たまり得ず、小船一艘に取乗て、和泉国へぞ落られける。是のみならず、西長尾城も被攻ぬ前に落しかば、四国は時の間に静りて、細川右馬頭にぞ靡順ひける。


320 和田楠与箕浦次郎左衛門軍事

南方の敵軍和田・楠も、相摸守に兼て相図を定て、同時に合戦を始んと議したりけるが、七月二十四日相摸守討れて、四国・中国は太略細川右馬頭頼之に靡順ぬと聞へければ、日来の支度相違して、気を損じ色を失てぞ居たりける。さもあれ、加様にて徒に日を送らば、敵は弥勝に乗て、諸国の御方降人になる者ありぬと覚れば、一軍して国々の宮方に気を直させんとて、和田・楠其勢八百余騎を卒し、野伏六千余人神崎の橋爪へ打臨む。此比摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道々誉が持たりければ、其身は京都に有乍ら、箕浦次郎左衛門に勢百四五十騎付て、国の守護代にぞ置たりける。催促の国人取合て、其勢僅に五百余騎、神崎の橋二三間焼落て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃を汰て待懸たり。和田・楠態敵を忻ん為に、神崎の橋爪と株瀬と二箇所に打向て引へたれば、此を渡させじと、箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ馳向ふ。守護代箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ打臨む。橋桁は元来焼落したり、株瀬は水深し。和田・楠が兵共、縦弥長に思ふ共、可渡とは見へざりけり。八月十六日の夜半許に、和田・楠、元の陣に尚控へたる体を見せん為に、殊更篝を多く焼続けさせて、是より二十余町上なる三国の渡より打渡て、小屋野・富松・河原林へ勢を差回して、敵を河へ追はめんと取篭たり。京勢は是を夢にも知ねば、徒に河向に敵未引へたりと肝繕して居たる処に、小屋野・富松に当て、所々に火燃出て、煙の下に旗の手数た見へたり。是までも尚敵川を越たりとは思も不寄、焼亡は御方の軍勢共の手過ちにてぞ有らんと由断して、明行侭に後を遥に見渡したれば、十余箇所に村雲立て引へたる勢、旗共は、皆菊水の紋也。「さては敵早川を渡してけり。平場の懸合は叶まじ、城へ引篭て戦へ。」とて、浄光寺の要害へ引返さんとすれば、敵はや入替りたりと覚て、勝時を作る声、浄光寺の内に聞へたり。是を見て中白一揆の勢三百余騎は、国人なれば案内を知て、何の間にか落失けん一騎も不残留、只守護の家人僅五十余騎、思切たる体に見へて、二箇所に控へて居たりける。両所に扣へたる勢、一所に打寄らんとしけるが、敵の大勢に早中を隔られて不叶ければ、箕浦次郎左衛門東を差して落行に、両方深田なる細堤を、敵立切て是を打留めんと、行前を遮り道を要て、取篭事度々に及べり。され共箕浦懸破ては通り取て返ては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門は討れぬ。是を見て芥河右馬允、すげなう引分れて落て行んとしけるを、「日比の口には似ぬ者哉。」と箕浦に言を被懸、一所に打寄て相伴ふ。箕浦是を案内者にて、数箇所の敵の中を遁れ出、都を差てぞ上りける。下の手に扣へたる者共は、落方を失て惘然として居たるを、木村兵庫允泰則、「兵共の掟、面々存知の前なれ共、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生んとすれば死る者にて候ぞ。只幾度も敵のなき方へ引かで、敵の大勢扣へたらん所へ懸入て戦はんに、討れば元来の儀、討れずは懸抜て、西を指て落て行んに、敵もさすが命を捨ては、さのみ長追をばし候はん哉。と云処げにもと思はゞ、泰則に続けや人々。」と云侭に、浄光寺前に百騎許扣へたる敵の方へ、馬を引返して歩ませ行く。敵是を見て、是は何様降人に出る者かと、少し猶余して扣へたる処に、歩立なる石津助五郎行泰に、矢二筋三筋射させて、敵の馬の足少しどろになれば、三騎の者どもをつと喚て懸入るに、百騎許扣へたる敵颯と分れ靡きて、敢て是に当らんとせず。只射手を進めて射させける程に、箕浦弥次郎討れぬ。同四郎左衛門深手を負て田中に臥たり。塩冶六郎左衛門・木村兵庫も、馬の平頚・草脇二所射させて深田のあぜに下立たり。すはや討れぬと見へけるが、木村兵庫放れ馬のありけるに打乗て、かちに成りたる塩冶を、馬の上より手を引て尼崎へ落て行く。敵迹に付ても追ざりければ、道場の内に一夜隠れ居て翌の夜京へぞ上りける。和田・楠等只一軍に摂州の敵を追落して勝に乗といへ共、赤松判官・信濃彦五郎兄弟、猶兵庫の北なる多田部城に篭て、兵庫湊河を管領すと聞へければ、九月十六日、石堂右馬頭・和田・楠三千余騎にて、兵庫湊川へ押寄せ、一宇も不残焼払ふ。此時赤松判官兄弟は、多田部・山路二箇所の城に篭て、敵懸らば爰にて利をせんと待懸けるが、楠いかゞ思ひけん、軈て兵庫より引返しければ、赤松出会に不及、野伏少々城より出して、遠矢射懸たる許にて、墓々敷軍は無りけり。都には同九月晦日改元有て貞治と号す。是は南方の蜂起さてもや静まると、諸卿申合れし故也。げにも改元の験にや、京都より武家の執事尾張大夫入道、大勢を討手に下すと聞へければ、和田・楠又尼崎・西宮の陣を引て河内国へ帰りぬ。是を聞て山名伊豆守時氏が勢の、丹波の和久に居たりしも、因幡国へぞ引返しける。今年天下已に同時に乱て、宮方眉開きぬと見へけるが、無程国々静りけるも、天運の未至らぬ処とは云ながら、先は細川相摸守が楚忽の軍して、無云甲斐討死をせし故也。


321 太元軍事

昔孔子謂顔淵曰、「用之則行舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」とほめ給ひけるを、傍にて聞ける子路、大に忿て曰、「子行三軍則誰与。」と申ければ、孔子重て子路を諌て曰、「暴虎憑河死而無悔者吾不与也。必也。臨事而懼、好謀而成者也。」とぞ宣ひける。されば古も今も、敵を滅し国を奪ふ事、只武く勇めるのみに非ず。兼ては謀を廻らし智慮を先とするにあり。今大宋国の四百州一時に亡て、蒙古に奪はれたる事も、西蕃の帝師が謀を廻せしによれり。其草創のよれる所を尋ぬれば、宋朝世を治て已に三十七代、其亡し時の帝をば幼帝とぞ申ける。此時太元の国主老皇帝、其比は未吐蕃の諸侯にてありけるが、哀れ何にもして宋朝四百州・雲南万里・高麗三韓に至るまで不残是を打取ばやと思ふ心、骨髄に入て止時なし。或時彼老皇帝此事を天に仰ぎ、少し目睡給ける夢に、「宋朝の幼帝と太元の老皇帝と楊子江を隔て陣を張て相対する事日久し。時に楊子江、俄に水旱て陸地となる。両陣の兵已に相近て戦はんとする処に、幼帝は其身化して勇猛忿迅の獅子となり、老皇帝は形俄に変じて白色柔和の羊となる。両方の兵是を見て、弓をふせ戈を棄て、「天下の勝負は只此獅子と羊との戦に可在。」と伺見る処に、羊獅子の忿れる形に懼れて忽に地に倒る。時に羊二の角と一の尾骨をつき折て、天にのぼりぬ。」とぞ見給ひける。老皇帝夢醒て後心更に悦ばず、大に不吉なる夢なりと思ひ給ければ、夙に起て西蕃の帝師に此夢を語り給ふ。帝師是を聞て心の中に夢を占て謂、「羊と云文字は八点に王を書て懸針を余せり。八点は角なり、懸針は尾なり。羊二の角と一の尾を失はゞ王と云字になるべし。是老皇帝太元宋国高麗の国を合せ保て天下に主たるべき瑞相也。又宋朝の幼帝獅子に成て闘ひ忿ると見へけるも、自滅の相也。獅子の身中に毒虫ありて必其身を食殺す。如何様幼帝の官軍の中に弐ある者出来て、戈を倒にする事あるべし。」と占。夢の理り明に両方の吉凶を心に勘へければ、「是大なる吉夢也。時を不易兵を召れて宋国を可被攻。」とぞ、帝師勧め申されける。老皇帝は元来帝師が才智を信じて、万事を是が申侭に用ひ給ひければ、重て吉凶の故を尋問までに不及、太元七百州の兵三百万騎の勢を催して、楊子江の北の畔に打臨み、河の面三百余箇所に浮橋を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。太宋国幼帝此事を聞給て、「さらば討手を差下せ。」とて、伯顔丞相を上将軍として百万騎、襄陽の守呂文煥を裨将軍として三十万騎、大金の賈似道・賈平相兄弟を副将軍として、六十万騎を差下さる。三軍の兵三百万騎、江南に打臨み、夜を日に継で、楊子江を前に直下て、三箇所に陣をぞ取たりける。中にも伯顔丞相一陣に進て、楊子江の南に控へたりけるが、太元の兵共の浮橋をかけ陣を張たる体を見て、謀を廻して不戦勝事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里後に高く岨き山を城に拵て、四方の屏を何に打破る共無左右破られぬ様に高く塗せて、内に数千間の家を透間もなく作り並べ、櫓の上矢間の陰に、人形を数千万立置て、或は戈をさしまねき刃を交へ或は大皷を打弓を引て、戦を致さんとする様に、風を以て料理、水を以てあやつりて、岩を切たる細道に、たゞ木戸一開て、内に実の兵を二百余人留置き、敵城へ寄せば暫し戦ふ真似をしてふせぎ兼たる体を見せよ。敵勝に乗て城中へ責入らば敵を皆内へ帯き入て後、同時に数千の家々に火を懸て、己が身許隠して、堀たる土の穴より遁出て敵を皆可焼殺とぞ謀りける。去程に三百余箇所の浮橋を已に渡すましてければ、太元の兵三百万騎争ひ前で橋を渡る。伯顔丞相兼て謀たる事なれば、矢軍些する真似して、暫も不支引て行。太元の兵勝に乗て、逃るを追事甚急也。宋国の兵猶も偽て引体を敵に推せられじと、楯・鉾・鎧・胄を取捨て、堀溝に馬を乗棄て我先にと逃走る。是を謀るとも不知ける羽衛斥候の兵、徒に命を軽じて討死するも多かりけり。日已に暮ければ、宋国の兵城へ引篭る真似をして後なる深山へ隠れぬ。太元の兵は敵の疲れたる弊に乗て、則是を討んと城の際までぞ攻たりける。旗を進め戈をさしまねきて、城を遥に向上たれば、櫓の上屏の陰に、兵袖を連ねて並居たりとは見へながら、時の声も幽に、射出す矢楯をだにも不徹。太元の将軍是を見て、人形の木偶人共に誠の人が少々相交りてふせぐ真似するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引して気疲勢尽はてけるぞ。時を暫も不可捨。攻よや兵共。」と諌め罵て、責皷を打て楯を進めければ、城中に少々残置れたる兵共、暫有て火の燃出る様に、家々に火を懸て、ぬけ穴より逃走ける。木偶人誠の兵ならねば、敵責入れ共防ぐ者なし。太元三百万騎の兵共、勇み進で二つともなき木戸より城の中へ込入り、或は偽て棄置たる財宝を争て奪合ひ、或は忻て立置たる木人に向て、剣を拉ぎ戈を靡処に、三万余家作双べたる城中の家々より同時に火燃出て、煙満城に炎四方に盛なり。太元の兵共屏を上超て火に遁れんとすれば、可取付便もなく橋もなし。責入つる木戸より出んとするに烟に目くれて胆迷て何くを其方共不覚、只猛火の中に走倒れて、太元の兵三百万人は皆焼死にけり。太元王は、多日の粉骨徒に一時の籌策に被破、大軍未帝都の戦を不致前に三百万人まで亡びければ、此事今は叶まじかりけりと、気を屈して黙止されける処に、西蕃の帝師太元王に謁して申けるは、「大器は遅くなるといへり。太元国の天下豈大器に非ずや。又機巧は大真に非ず。成る事は微々にして破る事は大也。今宋国の節度使等が武略の体を聞に、死を善道に守り命を義路に軽んずるに非ず、只尺寸の謀を以て大功の成らん事を意とする者也。宋国り臣独智あつて元朝の人皆愚ならんや。我今謀を廻さば勝事を一戦の前に得つべし。君益志を天下の草創に懸給へ。臣須く以智謀、太宋国の四百州を一日の中に可傾。」と申ければ、太元王大に悦て、「公が謀を以て我若太宋国を得ば、必公を上天の下、一人の上に貴で、代々帝王の師と可仰。」とぞ被約ける。帝師則形をかへ身を窶して太宋国へ越、江南の市に行て、哀身貧して子多く持たる人もがなと伺見る処に、年六十有余なる翁の、一の剣を売て肉饅頭を買あり。帝師問て曰、「剣をうりて牛を買ふは治れる世の備へなり。牛を売て剣を買ふは乱たる時の事也。父老今剣を売て饅頭を買ふ。其用何事ぞや。」老翁答て曰、「我嘗兵の凶器なる事を不知、若かりし時好で兵書を学びき。智は性の嗜む処に出る者なれば、呉氏・孫氏が秘する処の道、尉潦・李衛が難しとする処の術、一を挙て占へば、則三を反してさとりき。然れば乍坐三尺の雄剣を提て、立処に四海の乱を理めん事、我に非ずは誰そやと、心を千戸万戸の侯に懸て思しに、我壮んなりし程は世治り国静なりし間、武に於て用られず、今天下方に乱れて、剣士尤功を立る時には、我已に老衰して其選に不当、久く此江南の市の上りに旅宿して、僅に三人の男子を儲たり。相如が破壁風寒して夜の衣短く、劉仲が乾鍋薪尽て朝の餐空し。只老驥の千里を思ふ心未屈せざれ共、飢鷹の一呼を待身と成ぬ。故に此剣を売て三子の飢を扶んと欲する也。」と委く身上の羸を侘て涙を流してぞ立たりける。帝師重て問て云、「父老の言を聞に、三人の子共飢て、公が百年の命已に迫れり。我三千両の金を持たり。願は是を以て父老の身を買ん。父老何ぞ兔ても無幾程老後の身を売て、行末遥なる子孫の富貴を不欲せや。」と問に、老翁眉を揚げ面を低て、「誠に公の言の如く、我に三千両の金を被与、我豈三子の飢を助て無幾程命を不捨や。」とぞ悦ける。「さらば。」とて、帝師則老翁の身を三千両の金に買ひ、太元へ帰りて後、先使者を宋国の帝都へ遣して、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯にほこれりと聞る上将軍伯顔丞相・呂文煥等が事を、都にいかゞ云沙汰するとぞ伺聞せける。使者都に上て家々に彳み、事の体人の云沙汰する趣、能々伺聞て太元に帰り、帝師に対て語けるは、「伯顔丞相・呂文煥等太元の軍に打勝て、武功身に余れり。天下の士是を重ずる事、上天の威に超たり。若此勢を以て世を傾んと思はゞ、只指掌よりも安かるべし。古安禄山が兵を引て帝都を侵し奪しも、斯る折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。帝師使者の語るを聞て、今はかうと思ければ、三千両の金に身を売たりつる老翁を呼て、彼が股の肉を切裂て、呂文煥・伯顔将軍・賈丞相三人が手迹を学て返逆籌策の文を書、彼が骨のあはひに収て疵を愈してぞ持せける。其文に書けるは、「我等已に太元の軍に打勝て士卒の付順事数を不知。天已に時を与たり。不取却禍有べし。然ば早士を引約を成して帝都に赴んと欲す。若亡国の暗君を捨て有道の義臣に与せんとならば、戈を倒にする謀を可致。」と書て、宮中の警固に残し留られたる国々の兵の方へぞ遣しける。敵を討手だて如此認て、帝師重て老翁に向て申けるは、「汝先帝都に上り怪げなる体にて宮中を伺見るべし。去程ならば、宮門を守る兵共汝を捕へて嗷問すべし。縦水火の責に逢共、暫は勿落事。倒懸身を苦め炮烙骨を砕時に至て、我は伯顔将軍・賈丞相等が使として、謀反与力の兵共に事の子細を相触ん為に、帝都に赴きたる由を白状して、其験是也とて、件の身の中に隠しける書を可取出。」とぞ教へける。彼老翁已に三千両の金に身を売し上は、命を非可惜、帝師が教の侭に謀反催促の状を数十通身の肉を創て中に収め、帝都の宮門へぞ赴ける。忽身を車裂にせられ骨を醢にせらるべきをも不顧、千金に身を替て五刑に趣く、人の親の子を思道こそ哀なれ。老翁則帝都に上て、態怪げなる体に身を窶し、宮門を廻て案内を見る由に翔ひける間、守護の武士是を捕へて、上つ下つ責問に、暫は敢て不落。嗷問度重て骨砕け筋断ぬと見へける時に、「我は是伯顔将軍・呂文煥等が謀叛催促の使也。」と白状して、股の肉の中より、宮中洛外諸侯の方へ、約をなし賞を与たる数通の状をぞ取出たりける。典獄の官驚て此由を奏聞しければ、先使者の老翁を誅せられて、軈て伯顔将軍・賈丞相・呂文煥等が父子兄弟三族の刑に行れて、或は無罪諸侯死を兵刃の下に給り、或は功有し旧臣尸を獄門の前に曝せり。此事速に楊子江の陣へ聞へしかば、伯顔将軍・賈丞相・呂文煥等、頭を延て無罪由を陳じ申さん為に、太元の戦を打捨て都へ帰り上けるが、国々の諸侯道塞て不通ける間、三人の将軍空く帝師が謀に被落て、所々にて討れにけり。是より楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人も無れば、太元五百万騎の兵共、推して都へ責上るに、敢て遮るべき勢なければ、宋朝の幼帝宮室を尽し宗廟を捨て、遂に南蛮国へ落給ふ。太元の老皇帝、軈て都に入替り給しかば、天下の諸侯皆順付奉て、太宋国四百州、忽に太元の世に成にけり。さしもいみじかりし太宋国、一時に傾し事も、天運図に当る時とは云ながら、只帝師が謀によれる者也。今細河相摸守、無双大力世に超たる勇士なりと聞へしか共、細河右馬頭が尺寸の謀に被落、一日の間に亡ぬる事、偏に宋朝の幼帝、帝師が謀に相似たり。人而無遠慮、必有近憂とは、如此の事をや申べき。