魯(前1055~前249)周の武王發の弟周公旦が始祖、伯禽が基礎を固めた。後に分家の三桓氏が実権を握り三十四代にして滅んだ。孔子の生国春秋戰國


周平王以後、爲春秋之世、其列國與周同姓者、曰魯、曰衞、曰晉、曰鄭、曰曹、曰蔡、曰燕、曰吳、其與周異姓者、曰齊、曰宋、曰陳、曰楚、曰秦、此其大者、餘小國若春秋所書、杞、許、滕、薛、邾、莒、江、黃之屬、不可盡述、於十二列國之中、有齊桓公、宋襄公、晉文公、秦穆公、楚莊王、五霸事跡、若論春秋諸國之終始、有未及戰國而先亡者、有旣及戰國而後亡者、各擧其槩周威烈王以後、爲戰國之世、則秦、楚、燕、齊、趙、魏、韓七大國而已、秦楚燕、猶爲春秋之舊國、田齊趙魏韓、則爲戰國之新國、凡春秋戰國之國、雖繫周之諸侯、而國異政、實不繫於周、難於盡載、附見周之下方、其時各有先後、則觀者詳之、【莒】音擧、【小國】杞也、許也、滕也、薛也、邾也、莒也、江也、黃也、竝國名、【槩】音漑、大略也、【田齊】田氏齊、【見】音現、【下方】以下方册、

春秋戦国 周の平王以後を春秋の世と為す。其の列国、周と同姓の者を魯、衛、晋、鄭、曹、蔡、燕、呉、と曰う。其の異姓なる者を、斉、宋、陳、楚、秦と曰う。これ其の大なるものなり。余の小国、杞、許、滕、薛、邾、莒、江、黄、はことごとくは述ぶべからず。 十二列国のうちに於いては、斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公、楚の荘王の五覇の事跡あり。中略 周の威烈王以後を、戦国の世と為す。則ち秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、の七大国のみ。秦、楚、燕は猶春秋の旧国たり。田斉、趙、魏、韓は則ち戦国の新国たり。以下略

周の平王以後(240年余り)を春秋時代という。魯、衛、晋、鄭、曹、蔡、燕、呉は周と同姓、斉、宋、陳、楚、秦は周と異姓で大国である。ほかの小国、杞、許、滕、薛、邾、莒、江、黄、については述べない。斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公、楚の荘王は覇者として顕著な事跡があるから(詳述した)。周の威烈王以後を、戦国時代という。この時代は、秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、の七国のみ。秦、楚、燕は春秋時代からの旧国で、田斉、趙、魏、韓、は戦国になってからの新興国である。

田斉 斉はもともと太公望が封ぜられた国だが国老の田氏がとってかわって諸侯になったので田斉という。



〔吳〕姫姓、太伯仲雍之所封也、十九世至壽夢、始稱王、壽夢四子、幼曰季札、札賢、欲使三子相繼立以及札、札義不可、封延陵、號曰延陵季子、聘上國過徐、徐君愛其寶劍、季子心知之、使還、徐君已歿、遂解劍懸其墓而去、【吳】子爵、都平江、【稱王】太伯太王長子、讓國而逃、其後歷仲雍、周章、熊遂、柯相、疆鳩夷、餘橋、疑吾、柯盧、周繇、屈羽、夷吾、禽處轉、頗高、句卑、去齊、至壽夢、爲十九世、始稱王未詳、【三子】長曰諸樊、次餘祭、次餘昧、【延陵】郡屬江浙、今常州、【聘】曲禮、諸侯使大夫問於諸侯曰聘、【過】音戈、【徐】國名、【使還】之使去聲、

呉は姫姓にして、太伯、仲雍の封ぜられし所なり。十九世にして壽夢に至り、始めて王と称す。壽夢に四子あり、幼を季札(きさつ)と曰う。札、賢なり。三子をして相継いで立たしめ、以て札に及ぼさんと欲す。札、義もて可(き)かず。延陵に封ぜらる。号して延陵の季子と曰う。上国に聘(へい)して徐を過(よ)ぎる。徐君其の宝剣を愛す。季子心に之を知る。使して還れば、徐君已(すで)に歿せり。遂に剣を解き、其の墓に懸けてさりぬ。

太伯、仲雍 11月14日出、太伯虞仲刑蠻にゆき断髪文身し季歴に譲る。とある

壽夢の末っ子季札は上方の諸侯にご機嫌伺いに出る最中、徐の国に立ち寄った。徐の君は札の佩びていた宝剣を欲しいと思った。札はそれと察して使いの帰りに剣を贈ろうと思っていたが、たち寄ってみれば徐の君は亡くなっていた。季札は剣を解き、徐君の墓に剣を手向けて立ち去った。



壽夢後四君、而至闔廬、擧伍員謀國事、員字子胥、楚人伍奢之子、奢誅而奔吳、以吳兵入郢、吳伐越、闔廬傷而死、子夫差立、子胥復事之、夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、夫差而忘越人之殺而父邪、周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒、越王句踐、以餘兵棲會稽山、請爲臣、妻爲妾、子胥言不可、太宰伯嚭受越賂、說夫差赦越、句踐反國、懸膽於坐臥、卽仰膽嘗之曰、女忘會稽之恥邪、擧國政屬大夫種、而與范蠡治兵、事謀吳、

壽夢の後四君にして闔廬(こうりょ)に至る。伍員(ごうん)を挙げて国事を謀(はか)る。員字は子胥(ししょ)、楚人伍奢(ごしゃ)の子なり。奢、誅せられて呉に奔り、呉の兵を以て郢(えい)に入る。呉、越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差(ふさ)立つ。子胥復之に事(つか)う。夫差讐(あだ)を復せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、夫差、而(なんじ)は越人の而の父を殺ししを忘れたるか、と。周の敬王二十六年、夫差、越を夫椒(ふしょう)に敗る。越王勾踐、余兵を以て会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請う。子胥言う、不可なり、と。太宰伯嚭(はくひ)、越の賂(まいない)を受け、夫差に説いて越を赦(ゆる)さしむ。勾踐国に反(かえ)り、膽(きも)を仰ぎ之を嘗(な)めて曰く、女(なんじ)会稽の恥を忘れたるか、と。国政を挙げて大夫種(しょう)に属し、而して范蠡(はんれい)と兵を治め、呉を謀ることを事とす。

いわゆる、臥薪嘗胆の逸話

郢 楚の都 このとき勾踐が献じた妻が西施で夫差はおぼれて国を傾けるに至る 属し ゆだねる わが国太平記に児島高徳が桜の幹を削って 天勾踐を空しゅうする莫れ 時に范蠡なきにしも非ず と書いた


大宰嚭譖子胥、恥謀不用怨望、夫差乃賜子胥屬鏤之劍、子胥吿其家人曰、必樹吾墓檟、檟可材也、抉吾目懸東門、以觀越兵之滅吳、乃自剄、夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江、吳人憐之、立祠江上、命曰胥山、【四君】諸樊、餘祭、夷昧、僚也、【闔廬】諸樊子、殺僚自立、闔音合、【員】音云、【郢】楚都、今江陵府、【越】蠻夷之國、姒姓、子爵、【夫】音扶、【差】音釵、【復】音伏、【讎】音酬、【呼】去聲、【而忘】之而、【而父】之而竝汝也、【敗】音拜、破他曰敗則音拜、自破曰敗則音唄、後皆倣此、【夫椒】之夫音扶、夫椒、吳地名、【句】音鉤、【會稽】音檜雞、【子胥言】有樹德莫如滋、去疾莫如盡之語、詳見左哀公元年、【嚭】音不上聲、【賂】音路、賄也、【說】音稅、誘也、自此至五卷終、不音者皆倣此、【坐】座同、【嘗之】飮食輒嘗膽以示苦也、【女】音汝、【屬】音燭、下同、【種】上聲、【蠡】音禮、【治】平聲、下同、【鏤】音閭、【賜劍】使以自殺、【檟】音賈、木名、【抉】音攜入聲、抉出也、【剄】音景、刎也、【盛】音成、【鴟夷】鴟音絺、馬革囊也、

太宰嚭、子胥謀(はかりごと)の用いられざるを恥じて怨望す、と譖(しん)す。夫差乃ち子胥に屬鏤(しょくる)の剣を賜う。子胥、其の家人に告げて曰く、必ず吾が墓に檟を樹(う)えよ。檟(か)は材とす可きなり。吾が目を抉(くじ)って東門に懸けよ。以て越兵の呉を滅ぼすを観ん、と。乃ち自剄す。夫差その尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)を以てし、之を江に投ず。呉人之を憐み、祠(し)を江上に立て、命じて胥山と曰う。


越十年生聚、十年敎訓、周元王四年、越伐吳、吳三戰三北、夫差上姑蘇、亦請成於越、范蠡不可、夫差曰、吾無以見子胥、爲幎冒乃死、【北】敗走也、【上】上聲、【姑蘇】臺在吳都、【成】和也、【無以見子胥】果如所料、故羞見之、【幎冒】面衣也、以帛爲之、方尺二寸、四角有繫、於後結之、幎音明入聲、冒音帽、○世紀、吳自太伯至夫差、凡二十五世、

越、十年生聚し、十年教訓す。周の四年、越、呉を伐つ。呉三たび戦い三たび北(に)ぐ。夫差、姑蘇に上り、亦成(たいらぎ)を越に請う。范蠡可かず。夫差曰く、吾、以て子胥を見る無し、と。幎冒(べきぼう)を為(つく)って乃ち死す。

太宰の伯嚭が、子胥は謀が用いられずに怨んでいますと、告げ口した。夫差は屬鏤の剣を与え(自殺を促がした)た。子胥は家人に、私の墓に檟(ひさぎ)を植えよ(呉王の棺おけになるだろう)またわが目をえぐって東門に懸けよ、(越の兵が呉を滅ぼすのを見るから)と言い残して自から首斬って死んだ。夫差は怒って死体を皮袋に詰めて河に投げ捨てた。呉の人、哀れに思い祠をつくって弔い、胥山と名づけた。 越は十年人を養い、十年は教育し訓練につとめた。周の四年越が呉を攻めた。呉は三度戦い三度とも負けて逃げた。夫差は姑蘇台に上り和平を請うたが范蠡は聞き入れなかった。夫差は死んだのち子胥に会わせる顔が無いと、顔を覆って死んだ。

怨望 うらむ  譖 そしる  剄 くびきる  鴟夷 馬皮で作った酒袋   北 敗北の北  幎冒 幎はとばり冒は帽

越旣滅吳、范蠡去之、遺大夫種書曰、越王爲人、長頸烏喙、可與共患難、不可與共安樂、子何不去、種稱疾不朝、或讒種、且作亂、賜劍死、范蠡裝其輕寶珠玉、與私從乘舟江湖、浮海出齊、變姓名自謂鴟夷子皮、父子治產、至數千萬、齊人聞其賢、以爲相、蠡喟然曰、居家致千金、居官致卿相、此布衣之極也、久受尊名不祥、乃歸相印、盡散其財、懷重寶閒行、止於陶、自謂陶朱公、貲累鉅萬、魯人猗頓往問術焉、蠡曰、畜五牸、乃大畜牛羊於猗氏、十年閒、貲擬王公、故天下言富者、稱陶朱猗頓、【遺】去聲、【頸】音景、【烏喙】烏孝烏、爾雅、純黑而反哺者曰烏、小而不反哺者曰鴉、喙訐穢切、口也、【難】去聲、【樂】音洛、【朝】音潮、【從】去聲、私從家衆也、【浮】舟行水曰浮、【鴟夷子皮】史注云、蓋以吳王殺子胥、而盛以鴟夷、今蠡自以有罪爲號也、【相】去聲、下竝同、【喟然】歎聲、【閒行】閒音㵎、潛行也、【陶】今定陶縣、屬曹州、【貲】音咨、財也、【累】上聲、【鉅萬】猶言萬萬、【猗頓】猗當作倚、姓也、【問術】問生財之術、【畜】音凶入聲、下同、【牸】音字、牝也、多畜之則生育必蕃、【擬王公】有王公之富也、


越既に呉を滅ぼす。范蠡之を去る。大夫種(しょう)に書を遣(おく)って曰く、越王は人となり長頸(ちょうけい)にして烏喙(うかい)なり。ともに患難を共にす可く、ともに安楽を共にす可からず。子何ぞ去らざる、と。種、疾(やまい)と称して朝せず。或る人、種、且(まさ)に乱を作さんとす、と讒(ざん)す。剣を賜りて死す。范蠡其の軽宝珠玉を装い、私従と舟に江湖に乗じ、海に浮んで斉に出で、姓名を変じて、自ら鴟夷子皮(しいしひ)と謂う。父子、産を治めて、数千万に至る。斉人其の賢を聞き、以て相と為す。蠡、喟然(きぜん)として曰く、家に居ては千金を致し、官に居ては卿相を致す。これ布衣の極なり。久しく尊名を受くるは不祥なり、と。乃ち相の印を帰し、尽く其の財を散じ、重宝を懐き、行して陶に止まる。自ら陶朱公と謂う。貲(し)、鉅萬を累(かさ)ぬ。魯人猗頓、往いて術を問う。蠡、曰く、五牸(ごじ)を畜(か)え、と。乃ち大いに牛羊を猗氏に畜う。十年の間にして貲王公に擬す。故に天下の富を言う者、陶朱・猗頓を称す。

鴟夷子皮 伍子胥が詰められた馬の皮になぞらえる  喟然 ためいきをつく 布衣 身分の卑しいもの  行 ひそかに行くこと  貲 財産 鉅萬 巨万に同じ  五牸 五匹の牝牛  猗氏 土地の名

范蠡は論功行賞の前に越を去った。大夫の種に手紙を残して、越王勾踐は長いくびにカラスの嘴で残忍な性格の相だ、苦労は共にできるが、安楽は共に出来ない。あなたはどうして去らないのだ。そこで種は病気と称して出仕しなかった。或る人が大夫は謀反を企てていると讒言した。種は賜わった剣で自殺した。范蠡は持てる財宝を舟に積み家族、家臣と共に海路斉に行き、鴟夷子皮と名を変えて、父子で数千万の財を成した。斉人は彼の賢明なことを聞き、宰相に推薦した。范蠡が嘆息して言うには、家にいては千金の富を作り、官に仕えては忽ち宰相の位に就く、平民にとっては出世の極みである、長い間そういう名誉をうけているのは不吉であると、宰相の印を返し、財を人々に分け与え、貴重な宝物だけを持ってひそかに間道を通って陶に行き、そこにとどまって陶朱公と名のった。 魯人の猗頓が訪ねて行って、金持ちになる法を聞いたところ、五匹の牝牛(と雄牛を一匹)飼いなさいと教えた。十年の間に財産を殖やし王公にもなぞらえる程になった。だから金持ちといえば陶朱と猗頓のことをいうようになった。 〔曹〕姫姓、武王弟曹叔振鐸之所封也、其後世至春秋中、爲宋所滅、【曹】侯爵、都定陶、【鐸】音唐入聲、【爲】去聲、○世紀、曹自叔振鐸至伯陽、凡二十六世、 〔宋〕子性、商紂庶兄微子啓之所封也、後世至春秋、有襄公茲父者、欲霸諸侯、與楚戰、公子目夷、請及其未陣擊之、公曰、君子不困人於阨、遂爲楚所敗、世笑以爲宋襄之仁、【宋】公爵、都宋、【目夷】襄公庶兄、子魚也、【未陣】未成行陣、【阨】音厄、【爲】去聲、【敗】音拜、下同、 宋は子姓、商紂の庶兄微子啓の封ぜられし所なり。後世春秋に至り、襄公茲父(じょうこうじほ)という者有り、諸侯に覇たらんと欲し、楚と戦う。公子目夷(もくい)、其の未だ陣せざるに及んで之を撃たんと請う。公曰く、君子は人を阨(やく)に困(くる)しめず、と。遂に楚の敗る所と為る。世笑いて以て宋襄の仁と為す。

商紂 殷の紂王のこと   微子啓11/10殷の最期に登場  覇 諸侯の長たることを周王が認めること  阨 災厄  宋襄の仁 つまらぬ情けをかけること

楚との戦いの時、公子目夷が敵の陣形が整う前に撃ちたいと請うたが、襄公は、君子は人の難儀につけ込まぬものだと、許さずにかえって楚に敗れてしまった。世の人笑って、無益の情けをかけることを宋襄の仁と言った。 其後有景公者、熒惑嘗以其時守心、心宋之分野、公憂之、司星子韋曰、可移於相、公曰、相吾之股肱、曰、可移於民、公曰、君者待民、曰、可移於歲、公曰、歲饑民困、吾誰爲君、子韋曰、天高聽卑、君有君人之言三、宜有動、候之、果徙一度、【熒惑】火星、熒音螢、【守心】心心宿經星也、【分】音墳去聲、宋豫州之域、心宿直焉、【司星】星官也、【於相】使相受災、【於民】使民受災、【於歲】使歲凶荒、【饑】穀不熟曰饑、【爲】去聲、【動】感也、歷數世、至康王偃、有雀生[鳥㫋]、占之、曰必霸天下、偃喜、敗齊楚魏、與爲敵國、偃淫虐、天下號之曰桀宋、周愼靚王時、齊湣王與楚魏、共伐宋滅之、而分其地、【[鳥㫋]】音氈、劉向說苑作鸇、字林云、鷂屬、【占】音瞻、【與爲】之與音豫、【桀宋】謂其虐如桀、【愼靚王】案通鑒、當作赧王、【湣】一作閔、○世紀、宋自微子啓至康王偃、凡三十二世、



〔魯〕姫姓、周公子伯禽之所封也、周公誨成王、王有過則撻伯禽、伯禽就封、公戒之曰、我文王之子、武王之弟、今王之叔父、然我一沐三握髮、一飯三吐哺、起以待士、猶恐失天下賢人、子之魯、愼無以國驕人、【魯】侯爵、都曲阜、【撻伯禽】撻己子以厲王、【沐】洗頭、【飯】上聲、【無】毋同、禁止辭也、 魯は姫姓、周公の子伯禽の封ぜられし所なり。周公、成王に誨(おし)うるに、王過ち有らば則ち伯禽を撻(むちう)つ。伯禽、封に就(つ)く。公之を戒めて曰く、我は文王の子、武王の弟にして、今王の叔父なり。然れども我一沐に三たび髪を握り、一飯に三たび哺(ほ)を吐き、起って以て士を待つも、猶天下の賢人を失わんことを恐る。子、魯に之(ゆ)かば、慎んで国を以て人に驕る無かれ、と。

魯は姫姓(周と同じ)で、周公の子の伯禽が封ぜられた所である。周公は成王を教え導くのに、成王に過ちがあったときでも伯禽をむちうって暗に成王を諌めた。伯禽が封ぜられた地に赴くときに周公が言うことには、自分は文王の子、武王の弟で、今上の成王の叔父である。けれども(自分に会いに来る者があれば)髪を洗う間も髪を握ったままにして会い、また食事中にも何度も口の中の食物を吐き出して起って面会の士に対応した。それでもなお賢人を登用しきらないかと心配している。お前が魯に行ったら一国の君だからと、民に驕りたかぶっては、いけないと。

沐 髪を洗うこと  賢者を求める事を後に「吐哺握髪 哺を吐き髪を握る」と言うようになった。 太公封於齊、五月而報政、周公曰、何疾也、曰、吾簡其君臣禮、從其俗、伯禽至魯、三年而報政、周公曰、何遲也、曰、變其俗、革其禮、喪三年而後除之、周公曰、後世其北面事齊乎、夫政不簡不易、民不能近、平易近民、民必歸之、【報政】猶述職也、【北面】臣禮、【夫】音扶、【易】音異、下同、周公問太公、何以治齊、曰、尊賢而尙功、周公曰、後世必有篡弑之臣、太公問周公、何以治魯、曰、尊賢而親親、太公曰、後寖弱矣、【治】平聲、下同、【篡】音剗去聲、【寖】音浸、漸也、








伯禽十三世而至隱公、爲春秋之始、伯禽而下、歷考公、煕公、幽公、魏公、厲公、獻公、眞公、武公、懿公、伯御、孝公、惠公、至隱公爲十三世、隱公之弟曰桓公、桓公之子莊公、莊公有庶弟三人、曰慶父、其後爲孟孫氏、曰叔牙、其後爲叔孫氏、曰季友、其後爲季孫氏、是爲三桓、世執國命、歷子班、閔公、僖公、文公、宣公、成公、襄公、至昭公、伐季氏、三家共伐之、公奔乾侯、以卒、【班】春秋作般、【共伐】三家反共伐公、【乾侯】晉邑、乾音干、 伯禽より十三世にして隠公に至る。春秋の始めと為す。隠公の弟を桓公と曰う。桓公の子が荘公、荘公に庶弟三人有り。慶父と曰う。其の後を孟孫氏と為す。叔牙と曰う。其の後を叔孫氏と為す。季友と曰う。其の後を季孫氏と為す。是を三桓氏と為す。世よ国命を執る。七代(名は略す)を歴(へ)て昭公に至り、季氏を伐つ。三家共に之を伐つ。公、乾侯に奔(はし)り、以て卒す。


隠公の弟桓公に三人の弟、慶父と叔牙と季友がいた。その後をそれぞれ孟孫氏、叔孫氏、季孫氏といい、魯の実権を握った。魯の昭公に至って、昭公が季孫氏を伐ったが三家が共同して、逆に昭公を伐った。

弟定公立、以孔子爲中都宰、一年四方皆則之、由中都爲司空、進爲大司寇、相定公會齊侯于夾谷、孔子曰、有文事者、必有武備、請具左右司馬以從、【中都宰】中都邑、屬東平、宰邑長也、曰大夫、曰令、曰長、曰尹同、卽今之知縣也、【司空】官掌邦土、居四民、時地利、【大司寇】官掌邦禁、誥姦慝、刑暴亂、【相】去聲、下同、【夾谷】今名夾山、在東海郡、【具】俱也、【左右司馬】官掌邦政、統六師、平邦國、

旣會、齊有司請、奏四方之樂、於是旗旄劍戟、鼓譟而至、孔子趨而進曰、吾兩君爲好、夷狄之樂、何爲於此、齊景公心怍麾之、齊有司請、奏宮中之樂、優倡侏儒戲而前、孔子趨而進、曰、匹夫熒惑諸侯者、罪當誅、請命有司加法焉、首足異處、景公懼、歸語其臣曰、魯以君子之道輔其君、而子獨以夷狄之道敎寡人、於是齊人、乃歸所侵魯鄆、汶陽、龜陰之地、以謝魯、【譟】音掃去聲、【好】去聲、和也、【怍】音昨、愧也、【麾】指麾使其退、【優倡】倡音昌、俳優倡妓、【侏儒】短人、【熒惑】迷亂也、【異處】謂分其屍、【語】去聲、【鄆】音韻、【汶】音問、【侵地】左傳注、鄆也、讙也、龜陰也、三邑皆汶陽之田、爲齊所侵者、至是歸魯、案三體詩注、汶陽乃今泰安州奉符縣也、

弟定公立つ。孔子を以て中都の宰と為す。一年にして四方皆之に則る。中都より司空と為り、進んで大司寇(たいしこう)と為る。定公を相(たす)けて、斉公に夾谷に会す。 孔子曰く、文事有る者は、必ず武備有り。請う左右の司馬を具(そな)えて以て従えんことを、と。―中略― 斉の有司、宮中の樂を奏せんと請う。優倡侏儒、戯れて前(すす)む。孔子趨(はし)って進んで曰く、匹夫諸侯を熒惑(けいわく)する者は、罪誅に当(とう)す。請う有司に命じて法を加えん、と。首足、処を異にす。-以下略―

この後斉の景公は国に帰って、かつて侵略して手に入れた鄆(うん)、汶陽(ぶんよう)、亀隠(きいん)の三つの地を魯に返した。

中都の宰 中都(地名)の長  司空 土木水利の大臣  大司寇 司法警察を掌 る大臣  相 賓客に接見する時の補佐役  侏儒 俳優やこびと  熒惑 くらまし、まどわすこと   



この後斉の景公は国に帰って、かつて魯を侵略して手に入れた鄆(うん)、汶陽(ぶんよう)、亀隠(きいん)の三つの地を返した。 次いで孔子は、三桓氏の弱体化に取り組む。


孔子言於定公、將墮三都以强公室、叔孫氏先墮郈、季氏墮費、孟氏之臣不肯墮成、圍之弗克、【將】音漿、下竝同、【墮】許規切、毀也、【三都】三桓私邑、費郈成也、【郈】音后、【費】音祕、【孟氏之臣】處父、○語錄、問成旣不墮、孔子如何便休、曰、不久孔子亦去魯矣、若使久居之、自須有箇處置、孔子由大司寇、攝行相事、七日而誅亂政大夫少正卯、居三月、魯大治、齊人聞之懼、乃歸女樂於魯、季桓子受之、不聽政、郊又不致膰俎於大夫、孔子遂去魯、【攝】兼也、【少正卯】少去聲、少正姓、卯名、一說少正官名也、【歸】音饋、【郊】祀天、【膰】音煩、祭餘肉也、【去魯】史記世家、定公以孔子爲大司寇、攝行相事、與聞國政、大治、齊人聞而懼曰、孔子爲政必霸、霸則吾地近焉、我爲之先幷矣、盍致地焉、犂鉏曰、請先嘗沮之、沮之不可、則致地庸遲乎、於是選齊國中美女八十人、皆衣文衣、而舞康樂、文馬三十匹、遺魯君、陳女樂文馬於魯城南高門外、季桓子微服往觀再三、將受、乃語魯君爲周道遊、觀終日、怠於政事、子路曰、夫子可行矣、孔子曰、魯今且郊、如致膰於大夫、則吾猶可止、桓子卒受齊女樂、三日不聽政、郊又不致膰俎於大夫、孔子遂行、孟子曰、孔子乃欲以微罪行、是也、 孔子、定公に言い、将に三都を堕(こぼ)ち以て公室を強くせんとす。叔孫氏先づ郈(こう)を堕ち、季氏、費を堕つ。孟氏の臣、成を堕つことを肯(がえ)んぜず。之を圍(かこ)んで克(か)たず。孔子、大司寇より、相の事を攝行す。七日にして、政(まつりごと)を乱(みだ)る大夫の少正卯(しょうせいぼう)を誅す。居ること三月にして魯大いに治まる。斉人之を聞いて懼(おそ)れ、乃ち女樂を魯に帰(おく)る。季桓子之を受けて政を聴かず。郊して又膰俎(はんそ)を大夫に致さず。孔子遂に魯を去る。

孔子は三桓氏の居城、郈、費、成を潰そうとしたが孟孫氏の成が抵抗した。都を囲んだが失敗に終わった。 孔子は大司寇と宰相を兼ねること七日目に国政を乱した、少正卯を誅殺する。三月にして治まった。斉これを聞いて恐れ舞姫を魯に贈った。季桓氏が夢中になって政治を顧みなくなった。天地の神を祭った時も供えた肉を大夫に届けなかった。孔子は礼の行われないことを知り遂に魯を去った。



定公卒、子哀公立、欲以越伐三桓、不克、歷悼公、元公、至繆公、知尊子思、而不能用、歷共公康公、至平公、嘗欲見孟子、而不果、歷文公、至頃公、爲楚考烈王所滅、魯自周公至頃公、凡三十四世、【繆】音目、【共】音恭、【不果】說見梁惠王篇、【頃】音傾、【爲】去聲、【三十四世】愚案、本周公而言、當作三十五世、○孔子、名丘、字仲尼、其先宋人也、孔子出自子姓、宋太子弗父何後、何玄孫孔父嘉、爲宋督所殺、故其子奔魯、遂以孔爲氏、有正考父者、佐宋、三命滋益恭、其鼎銘云、一命而僂、再命而傴、三命而俯、循牆而走、亦莫余敢侮、饘於是、粥於是、以餬予口、【正考父】正諡、考父字、孔父嘉父也、【鼎銘】考父廟鼎銘文、【僂傴俯】僂音呂、傴音禹、初命爲士、其容僂、再命爲大夫、其容傴、三命爲卿、其容俯、蓋三者皆是低頭、而傴甚於僂、俯甚於傴也、所謂滋益恭、【循牆而走】遜避之甚、不敢安行、【莫余敢侮】雖過恭、而人不慢之、【饘於是云云】饘音㫋、粥音育、稠曰饘、希曰粥、謂爲饘粥於是鼎中、以餬我口、儉之至也、孔氏滅於宋、其後適魯、有叔梁紇者、與顏氏女、禱於尼山、而生孔子、【叔梁紇】叔梁字、紇名、紇下沒切、【尼山】卽尼北山、在兗州、爲兒、嬉戲常陳俎豆設禮容、長爲季氏吏、料量平、嘗爲司樴吏、畜蕃息、【俎豆】祭祀、載牲體曰俎、爲葅醢曰豆、【長】音張上聲、【季氏吏】史記作委吏、主委積倉廩、【量】音亮、【司樴吏】樴、史記作杙、蓋繫養犧牲之所、此官卽孟子所謂乘田、【畜】音嗅、獸產、適周問禮於老子、反而弟子稍益進、適齊、齊景公將待以季孟之閒、孔子反魯、定公用之不終、適衞、將適陳、過匡、匡人嘗爲陽虎所暴、孔子貌類陽虎、止之、【稍】音消去聲、【季孟】魯二卿、季氏最貴、孟氏爲下卿、景公將以奉待季氏孟氏之禮之閒待孔子、【適衞】主顏讐由家、【過】音戈、【匡】史注、宋邑、【爲】去聲、【陽虎】陽姓、虎名、字貨、季氏家臣也、【類】似也、【止之】有顏淵後、文王旣沒之語、旣免反于衞、醜靈公所爲、去之、過曹適宋、與弟子習禮大樹下、桓魋伐拔其樹、適鄭、鄭人曰、東門有人、其顙似堯、其項類皐陶、其肩類子產、自要以下、不及禹三寸、纍纍然若喪家之狗、適陳又適衞、將西見趙簡子、至河、聞竇鳴犢、舜華殺死、臨河歎曰、美哉水、洋洋乎、丘之不濟、此命也、反于衞、適陳、適蔡、如葉、反于蔡、【免】脫也、【反于衞】主𨙊伯玉家、見南子、【靈公所爲】史記、衞靈公與夫人南子同車、使孔子爲次乘、招搖市過之、故孔子醜之、有末見好德之語、【桓魋】宋司馬向魋也、出於桓公、故又稱桓氏魋、【伐樹】有天生德之語、【有人】孔子、【顙】音桑上聲、額也、【項】胡講切、頸也、【陶】音遙、【要】腰同、【纍纍然若喪家之狗】史記注、主人哀荒、不見飮食、故纍纍然而低垂也、喪平聲、【適陳】主司城貞子家、【適衞】有三年有成之語、【河】水出崑崙北合湟水、至長城、南至華陰合渭水、東入洛汭、又此合于漳水入海、【竇鳴犢舜華】二賢大夫、【反于衞】又主𨙊伯玉家、靈公問陳、不對而行、【適陳】案論語、則絕糧當在此時、【葉】音攝、楚邑、【反于蔡】有沮溺耦畊、丈人荷篠等事、楚使人聘之、陳蔡大夫謀曰、孔子用於楚、則陳蔡危矣、相與發徒、圍之於野、孔子曰、詩云、匪兕匪虎、率彼曠野、吾道非邪、吾何爲於是、子貢曰、夫子道至大、天下莫能容、顏囘曰、不容何病、然後見君子、楚昭王興師迎之、乃得至楚、將封以書社地七百里、令尹子西不可、孔子反于衞、季康子迎歸魯、哀公問政、終不能用、乃序書、上自唐虞、下至秦繆、


(訳なし)

孔子の残した業績から、詩経、易経、春秋、について、最期に孫の子思まで記します。

删古詩三千、爲三百五篇、皆絃歌之、禮樂自此可述、【徒】黨也、【詩云】小雅何草不黃篇、【兕】音辭上聲、野牛、二角、靑色、【曠野】之野、叶上與切、【何爲】之爲去聲、【子貢】姓端木、名賜、【顏囘】字子淵、【師】二千五百人爲師、【書社地】索隱曰、古者二十五家爲里、里各立社、則書社者書其社之人名於籍、蓋以七百里之人、封孔子也、【令】去聲、【令尹子西】楚相、號爲令尹、子西其字也、【反于衞】時靈公已卒、有答子路正名之語、【問政】有擧直民服之語、【唐虞】堯典、舜典、【秦繆】繆與穆通、秦誓、【删】音山、【三百五篇】詩三百十一篇、云三百五篇者、蓋以笙詩六篇無辭、有辭者實三百五篇、【絃歌】彈曰絃、誦曰歌、晚而喜易、序彖、象、繫辭、說卦、文言、【易】音亦、周易、【彖】音湍去聲、彖者文王所繫之辭、斷一卦之吉凶、如乾之元亨利貞是也、孔子從而釋之、故通謂之彖、今各卦彖曰以下之辭是也、【象】者周公所繫之辭、卦下象解一卦之義、謂之大象、如乾以天爲象是也、爻下象解一爻之義、謂之小象、如乾之潛龍勿用是也、孔子從而釋之、故通謂之象、今各卦象曰以下之辭是也、【繫辭】所以統言天地之閫奧、人事之終始、【說卦】所以陳說八卦之德業、說如字、【文言】所以釋論乾坤之妙理、皆孔子之所序述也、讀易、韋編三絕、因魯史記作春秋、自隱至哀、十二公、絕筆於獲麟、筆則筆、削則削、子夏之徒、不能贊一辭、【韋編】韋皮也、古者以皮編簡、披閱之勤、故至三絕、【十二公】隱公、桓公、莊公、閔公、僖公、文公、宣公、成公、襄公、昭公、定公、哀公、【獲麟】春秋經止於西狩獲麟一句、麟麕身牛尾馬蹄、毛蟲之長也、【則筆】可者筆於書、【則削】不可則削而去、【子夏】姓卜、名商、弟子三千人、身通六藝者、七十有二人、【六藝】禮樂射御書數、【七十有二人】顏囘、閔損、冉耕、冉雍、宰予、端木賜、冉求、仲由、言偃、卜商、顓孫師、曾參、儋臺滅、明高柴、宓不齊、樊須、有若、公晳哀、曾點、顏商、商瞿、漆雕開、公良需、公西赤、原憲、公冶長、南宮縚、秦商、顏刻、司馬黎、巫馬期、梁鱣、琴牢、冉儒、顏幸、伯虔、公孫龍、曹卹、陳亢、叔仲會、秦祖、奚箴、公祖茲、廉絜、公西與、宰父黑、公西箴、穰駟赤、冉季、公肩、秦非、漆雕從、燕伋、公夏守、句井疆、步叔乘、石作蜀、邽巽、施之常、申績、樂欬、顏之僕、孔忠、薛邦、石處、懸亶、左郢、狄黑、商澤、任不齊、榮祈、顏噲、原杭、漆雕侈、懸成、顏相、已上實七十六人、出家語

年七十三而卒、子鯉字伯魚、早死、孫伋字子思、作中庸、【伋】音急、【中庸】凡三十三章、 古詩三千を刪(けず)って三百五編と為し、皆之を弦歌す。礼樂、此より述ぶ可し。晩にして易を喜(この)み、彖(たん)、象(しょう)、繫辞(けいじ)、説卦(せっか)、文言(ぶんげん)を序(つい)ず。易を読んで、韋編三たび絶ゆ。魯の史記に因って、春秋を作る。隠より哀に至るまで十二公、筆を獲麟(かくりん)に絶つ。筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削る。子夏の徒、一辞を贊(さん)する能わざりき。弟子(ていし)三千人。身、六藝(りくげい)に通ずる者、七十有二人。年七十三にして卒す。子鯉字は伯魚早く死す。孫伋字は子思中庸を作る。

古くから伝わる詩三千編から選び抜いて三百五編にまとめ、楽器に合わせて歌えるようにした。晩年には易を好み彖、象、繫辞、説卦、文言を整理し順序だてた。何度も読んだので竹簡の綴じ皮が三度も切れるほどだった。魯の歴史に基づいて春秋を作った。隠公より哀公まで十二公、獲麟で絶筆とした。文学に長じた子夏でさえ一筆も加除することができなかった。弟子三千人六芸(礼、樂、射、御、書、数)に通じた者七十二人、七十三歳で亡くなった。子の伯魚は早世し孫の子思は中庸を作った





易経 五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)の一。周易とも。伏羲が八卦を作り周の文王が説いて周公が細かく説明を加えたと伝えられ、孔子が十翼を作って、天地間の万象を説明した。 韋編 韋はなめし皮 紙の発明は後漢の蔡倫に待たなければならないが、それ以前は竹帛、木簡で、板状にした竹をなめし皮で綴じた。韋編三度絶つとは書物を熟読する意になった。 獲麟 孔子の著した春秋で麒麟が獲えられた文言が絶筆となったので、物事の終末、孔子の死、ひいては臨終の辞世まで言うようになった。 六藝(りくげい)士以上の必ず身につけるべき六種の技芸 御は馬車を御すこと 中庸 四書の一つ、儒教の総合的解明書 子思の作 四書 礼記(らいき)の中の中庸と大学に論語と孟子を加えた四つの書


孟子其門人也、名軻、魯孟孫之後、生於鄒、幼被慈母三遷之敎、長受業子思之門、道旣通、游齊梁、不用、退與萬章之徒、難疑答問、作七編、【軻】字子車、一說、字子輿、【鄒】縣屬滕州、【三遷】初舍近墓、次徙近市、三徙近學、說見小學稽古篇、【長】音張上聲、【游齊梁】說見朱子序說、【難】去聲、【七篇】趙氏曰、凡二百六十一章、三萬四千六百八十五字、 孟子其門人也。名軻、魯孟孫之後。生於鄒。幼被慈母三遷之教、長受業子思之門。道既通、游齊・梁。不用。退與萬章之徒、難疑答問、作七篇。

孟子は其の(子思の)門人なり。名は軻(か)、魯の孟孫ののちなり。鄒(すう)に生る。幼にして慈母三遷の教を被り、長じて業を子思の門に受く。道既に通じ、齊・梁に游ぶ。用いられず。退いて萬章の徒と、難疑答問して、七篇を作る。

三遷 孟母三遷 初め墓地の傍に住んだところ葬式のまねごとばかりしているので次に市場に移ったところ、商売のまねをした。最後に学校の傍に引っ越したところ礼儀作法をまねるようになった。  ほかに孟母断機のことわざがある、学業途中で家に帰った軻に織りかけの機(はた)の縦糸を断って見せて、中途で投げ出せば、この織りかけの布と同じで全く無駄になってしまうと諭した。 萬章 孟子の弟子  七篇「孟子」七篇


○老子者、楚苦縣人也、李姓、名耳、字伯陽、又曰、字聃、爲周守藏吏、孔子問焉、老子吿之曰、良賈深藏若虛、君子盛德、容貌若愚、孔子去謂弟子曰、鳥吾知其能飛、魚吾知其能游、獸吾知其能走、走者可以爲網、游者可以爲綸、飛者可以爲矰、至於龍、吾不能知其乘風雲而上天也、今見老子、其猶龍乎、【苦】音戶、案全書、當作芒、屬亳州、【李姓】葛洪傳云、李氏女所生、從母姓、【聃】音貪、【守藏吏】官、主出納帑藏、藏音壯、【問焉】家語、孔子與南官敬叔、問禮於老聃、【賈】音古、商賈、【游】水行曰游、【綸】釣繩曰綸、【矰】音增、以絲繫矢而射曰矰、【上】上聲、老子見周衰、去至關、關令尹喜曰、子將隱矣、爲我著書、乃著道德五千餘言、而去、莫知其所終、【至關】萬氏云、函谷關、愚案、當是玉門關、列仙傳、關令尹、與老子俱之流沙、流沙在玉門關外、【尹喜】守關令、尹姓、喜名、見氏族大全、【爲】去聲、【著】音猪去聲、其後有鄭人列禦寇、蒙人莊周、亦爲老子之學、莊周著書侮孔子、而誚諸子焉、【鄭】州屬河南、【列禦寇】卽列子、著書二十篇、【蒙】邑屬睢州、【莊周】卽莊子、【爲】治也、二子竝治老子之學、【誚】音樵去聲、譏議也、【諸子】七十子之徒、 老子は、楚の苦縣(こけん)の人なり。李姓、名は耳、字は伯陽。又曰く、字は耼(たん)と。周の守蔵吏と為る。孔子焉(これ)に問う。老子之に告げて曰く、良賈(こ)は深く蔵(おさ)めて虚しきが若くし、君子は盛徳あって、容貌愚なるが若し、と。孔子 ―中略― 今老子をみるに、其れ猶龍のごときか、と。 老子、周の衰えたるを見て、去って關に至る。關の令、尹喜曰く、子将に隠れんとす、我が為に書を著わせ、と。乃ち道徳五千余言を著わして去る。其の終る所を知る莫し。其の後、鄭人列禦寇(れつぎょこう)・蒙人荘周有り。亦老子の学を為(おさ)む。荘周、書を著わし、孔子を侮り、而して諸子を誚(そし)る。

老子、老耼は周の守蔵吏(図書室)の役人になった。孔子が礼について問うたところ良い商人は、品物を深くしまいこんで、無いように見えるものだ、また有徳の君子は徳を顕わさないで、まるで愚者のように見えるものだ、と。孔子は帰って弟子に、老子は例えれば龍のようで、とらえようが無く、偉大な人である、といった。 老子は周を去って、関(函谷関か)にさしかかった。関の役人の尹喜は、あなたは今世を遁れようとしていますが、私のために何か書いて下さいませんか、と請うた。そこで老子は道徳経を書き残して去った。その後の消息を知る者はいなかった。後になって鄭人列禦寇(列子)と蒙人荘周(荘子)が老子の学をおさめた。荘子は孔子を侮り、諸子をそしった。


〔衞〕姫姓、武王母弟、康叔封之所封也、【衞】侯爵、都朝歌、後徙帝丘、【康叔封】武王同母之弟、名封、後世至春秋、有靈公夫人南子之亂、子蒯聵欲殺南子、不果出奔、【南子】宋女、子姓、【亂】淫亂、【蒯】音快、【聵】五怪切、【出奔】說見左定公十四年、公卒、立蒯聵之子輒、蒯聵入、輒拒之、子路與其難、太子之臣以戈擊子路、斷纓、子路曰、君子死冠不免、結纓而死、衞人醢子路、孔子聞之、命覆醢、【輒】出公、【蒯聵】入國自立、是爲壯公、【子路】孔子之弟子、姓仲、名由、【與】音豫、【難】去聲、【太子】蒯聵、【太子之臣】石乞、孟黶、【纓】冠繫也、【覆醢】覆音福、子路旣死衞輒之難、遂爲衞人所醢、孔子聞之、而覆棄家醢、蓋痛子路之禍、而不忍食其似也、○朱子曰、子路仕衞之失、前輩論之多矣、然子路卽是見不到、非知其非義而苟爲也、 (訳なし)