三壺聞書巻之十九 目録
 
石黒権平事 二七八
鷹栖松雲が事 二八一
犬追物の事 二八二
式次第の事 二八三
犬追物初る事 二八四
 
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三壺聞書巻之十九
 
 
 
正保四年正月は年内押詰の二十九日より御礼初り、金沢・富山・大聖寺より御名代、其の外江戸・上方等不及記、正月中は毎日太刀・折紙・礼銭の出でざる日なし。六日・七日・八日には今春権兵衛に御能被仰付、道成寺・土蜘其の外品々也。見物人無残所事済み、御参覲の御用意にて御用繁く、三月十九日御発駕と相極る。其の日御機嫌能く、朝六半時御発駕被成、同二十九日には鴻巣に御泊り、九半時に御立ちなさる。其の頃専ら夜道を御好みありて、昼はゆるゆる御休足被成、宵出宵出に出でさせ給ふ。提灯の光は上下晴天の星に異ならず。然るに鴻の巣を出給ひて、本鴻の巣へ一町半計になる時分、はるかの御後に夥敷乱合ひ、人声高く鳴り渡る。古市左近・竹田市三郎御乗物に付き申しけるに、喧嘩と相聞え騒動仕由被申上ければ、利常公御ふみ出しの戸を明けさせ給ひ、誰ぞ聞いて参れと御意の所に、竹田市三郎・塩川豊右衛門・嶋田又八・坂野市之丞走りけり。其の間御駕籠を立て置きて人声を聞けば、人を追尋ぬる声而己也。御供中畏りて待ちける所へ、竹田市三郎・大橋市右衛門を同道して来り、御駕籠の際へ寄り、市三郎申しけるは、市右衛門被申上候へとありければ、市右衛門申上ぐる。石黒権平を飛騨守様御家来江守彦左衛門若党が切りて逃申候。権平は未だ存命にて御座候。其の趣は御押への後に湯原八之丞・平岡志摩・大橋又兵衛・一木逸角・佃源太左衛門・荒木六兵衛・石黒権平、其の次に私・脇田三郎四郎、如斯段々乗懸にて御供仕る所に、鞍置馬一疋に若党一人・中間一人にて引通り、権平乗懸の右の脇を追懸け、横合に弓手の畠の中へ引きかへす。権平の馬は既に倒れんとしける所に、権平馬より飛下り、刀を抜き追行き申す所に、提灯持ちて何れも追懸候へ共、闇の夜にて所々に小笹藪・桑原など御座候て、しばし尋候へ共見付不申所に、彼の若党立帰りて、権平を三ケ所切りて逃申候。権平は倒れてうめきの声を聞付け、何れも寄りて鴻巣へ連行申候由申上ぐる。利常公御意には、其の中間めはと仰の所に、市右衛門申上ぐるは、馬を引き御先を心懸けて脇道を走り申す所を見付けて捕へ置申候由申上ぐる。早々江戸へ遣し牢へ入置可申旨御意ありて、御駕籠を急ぎ本鴻巣へ入らせ給へば、早や明け六つにぞなりにける。御機嫌以ての外に替らせ給ひて、朝御膳をも不被召上、うそをあそばし、御びんの髪を逆様に立て御座なさる。其の中に御供中食事も済みて罷出る。宮城越前守殿御使者進物持参し、岡嶋兵庫へ御披露候て、御返事被仰聞候へと申しければ、兵庫申しけるは、加様の時節なれば披露難成候。先々御帰候へ。是迄の御越は可申聞由申して使者は罷帰りける。石黒権平方へ左近・市三郎の家来に念頃の御歩行其の外付添ひて看病す。いまだ御発駕不被成内に、河合左助参着して市三郎・左近に申しけるは、権平手負は大事に御座候。三ケ所の疵共いえ合ひたる如く也。是は内へ血の引きたる故也。鴻巣より百人計人足を出し、相手を尋出し申由語りけり。利常公御出被成、静まり返りてしづしづと御駕籠をやりければ、岡嶋兵庫御駕籠の先を走廻り、此の中に飛騨守様衆の御座候はゞ御後へ下り給へと申しけり。飛騨守様より御歩行八人御迎の為御供致しけるが、承ると申して皆々見え隠れに御後へ下る。犬千代様・淡路守様衆は御供を勤めけり。漸く半里計も御出ありしが、市川理左衛門を召されければ、御簾のきはへ寄り、御直に何やらん承りて走り出で、蕨の渡しにて出向ひ、又御簾際にて御返事申上ぐる。後に是を聞くに、今枝民部方へ参り、公方様御医師外科の了伍とやらんを頼み、権平方へ早々可遣旨仰渡さる。然れ共其の日の暮合に権平相果つる。斯くて江戸へ御着ありて、津田玄蕃方へ御飛脚立ちて、江守彦左衛門若党の親兄弟並に請人六・七人火罪に仰付けらる。彼の若党は板橋の一里山に登りて、腹を切りて書置をし、私親・請人等の義御赦免被成下候へと書置きて自害し死しけるを、板橋の在所より注進す。利常公の御耳に立ち、親・請人何れも助け候へと重ねて御飛脚立ちけれ共、後になり、中間をば江戸にて御成敗被成。江守彦左衛門は御名代の御迎ながら、御使者に参り骨折りて閉門す。去れ共頓て御免を蒙る。此の石黒権平は、先祖伏見に御在城の時御用承る町人加州へ参り、金沢の真中繁昌の所に御屋敷拝領し、むさしや庄兵衛と申しけり。むさしが辻オープンアクセス NDLJP:150の棟梁也。此の者のせがれ権平優にやさしく踊り子に被召出、心は人に愛敬せられ、上を敬ひ下を能きに取りつくろふ者なれば、諸人惜みけり。余り御近所に徘徊して、冥感に押されける事拙き戒行哉とぞ申しける。
 
 
同年六月上旬に、奥州会津の侍従加藤式部を中国石見国吉水へ移さる。或人物語に、其の意趣は、父左馬介先年高麗陣にて比類なき働あり。当御代になりても度々の覚多かりし故、上意御念頃にして、会津蒲生飛騨守跡へ四拾万石にて被遣、子息式部に家督無相違下さるゝ。然るに家老堀主水と云ふ者不届なる子細ありて、生害せしめんと内々被存所に、主水聞伝へ、ある夜会津を立退き高野山へ引籠る。足弱共は内々より方々へ退け、手勢を引連れ甲冑を帯し、万代山へ廻り新川橋を焼払ひ立退く。加藤式部無念に思はれ上聞に達す。公儀より高野山へ捕手を遣さる。衆徒共詮儀して云ふ様は、昔より山へ入る者出す事無之といへ共、先年関白秀次公を害せしより武威たくましくなりて、大師の威神力も及びがたし。唯時の宜しきに随へとて、堀主水を捕へて出す。頓て評定所にて御吟味の所に、主水申しけるは、先年式部殿大坂御陣の刻秀頼公へ内通の儀あり。我れ達て是を諫む。夫より式部殿我等に心とけやらず。其の後又不義なる事御座候て、折々諫言を申入るといへ共、良薬口ににがく忠言耳に逆ひて、いよいよ奸人権を取る。然る所に徒に殺害たるべき由風聞故、不及是非立退候。此の上は何分にも被仰付候へと申上ぐる。其の後頓て主水を式部に被下、成敗可仕旨被仰出に付き、成敗を遂げ、為御礼登城致さる。上意として主水申分を被仰聞、全く主水申す所誠とは不被思召、此の方少しも別儀なき由被仰下、誠に忝上意也。式部驚き奉り、誓紙を以て無如在通り申上ぐる。其の上式部今程年も罷寄り、世間も苦労に奉存、会津四拾万石指上申候。何方にても御扶持少々被下候はゞ難有可奉存旨達て申上る所に、此の方に無御心許は不被思召、去れ共願に任せよと、石見の内にて一万石御扶持せられ、難有奉存貧楽に暮し申さる。斯くて保科弾正少弼は、甲州信玄の侍にて、信濃の高遠を領知せり。子息肥後守正元の代に成りて、出羽の山形鳥居左京跡へ被遣けるを、此の度会津式部跡へ御加増にて遣さる。根本は肥後守殿は秀忠公の末の御子たる故也。家光公の御別腹の御弟なり。
 
 
同年六月十一日に、神田の御屋敷へ江戸薩摩小左衛門を被召寄、あやつりを被仰付、御一門方・御出入衆を朝より御招ありて御振舞也。別けて犬千代様・万菊様・岩松様何れも御入被成、牛や蝶などを楽屋より出し、御目に懸け慰め奉る。御中入の時分になりて、子小将仲間にひそひそと呼き出し止む事なし。又小屋小屋にも走り廻りさゝやきける。あやつりも過ぎ、御客衆も御帰ありて、御子小将の内河田市十郎自害して罷在る由御聴に達す。いかなる子細ぞや、無心元由御意被成所に、狂気と相見え申旨申上ぐる。利常公御思案被成、狂気にてはよもあらじ、前田権之助参りて委細承りて参れと被仰出。権之助畏りて河田市十郎小屋へ参る所に、市十郎いまだ存命也。御意の趣被申渡所に、市十郎臥しながら、扨々難有御意哉と手を合せ権之助を拝み、一々物語をぞ致しける。御茶道鷹栖松雲事、御存知の通り御前躰宜しければ、子小将共一所に相詰め、何れも無隔心咄し申す所に、余り寵恩にほこりて、沢田五郎八に執心の義止みがたく、我等に中をあつかへと偏に頼み申すに付き、無是非私五郎八に内談致し候処、五郎八申しけるは、我等御奉公に被召出、江戸へ被召寄に付き、父誓紙を申付けたり。命の用にも事により立つべし。御法度の義も品により傍輩のために破るべし。衆道の事はかりそめにも破る事なかれ。其れ以て破らば生々世々不孝たるべしと申渡す。命の儀用に立つ共此の儀は御免あれと云ふにより、則ち松雲に申聞せ思ひ止れと申置く所に、松雲不機嫌にて打過ぎ、何とやらん手前にうとうと敷仕るに付き、たわけ者と存候所に、己が事を脇へなし、市十郎こそ五郎八と密通する由松雲人に語りなし、仲間の面々も不届とや思はれけん、何れも我等に踈隔致しけり。又返り忠の者ありて、推量の通りに私へ為知候者御座候。あの坊主首をはね申す事はいと安し。女同事の者を手に懸けてはよしなし。所詮言上せんにはしかじと存候得共、命をかばひ言上せんもよしなし。私も少しは御法度に背き奉る所もあり。所詮身を捨て御尋の時申訳致さんと、態と半死になりて待居たり。是オープンアクセス NDLJP:151こそ松雲が度々の手紙にて御座候とて、権之助へ相渡す。権之助罷帰りて言上ありしに、殊の外御気色替り、其の坊主め先づ打殺せと御意被成。長谷川庄太夫承りて松雲方へ行き、御意にてあるぞ覚悟致せと申しければ、手を合せ免し給へと申す所を、只一打に打臥せけり。早々小松へ御飛脚立ちて家財関所し、子供あらば殺害可申付旨、前田内蔵承り、妻をはだかにして追出す。松雲妹あり、去る方に宮仕へして居たりしが、此の程煩ひて引籠りありけるを、是も衣類・道具押へて追出す。娘一人ありて男子はなかりけり。河田市十郎は観妙院子にて、別けて勇成る子也とて、先年をどり子に被召出。根本武士の筋にて歴々にてありける故、一命を軽んじて申訳を致し相手を取る事、我が身に取りてはなりがたかるべし、あゝ惜い哉と人々申しけり。
 
 
同年十一月十三日江戸近所御城を去る事二里にして王子村と云ふ所へ、犬追物御見物に出御なる。嶋津薩摩守光久年々言上にて御許容の所也。王子村は御鷹場にて、御茶屋あるを用ひて桟敷規式の所とす。御茶屋の南に東西四十六間・南北十一間に機敷かまへ、将軍家の御一門・御譜代衆のみ御供也。南西の中程に上段をかまへ御座所とす。桟敷の南十二間隔りて馬場あり、東西四十二間・南北四十間也。四方に唐竹にて垣を結ひ、高さ四尺五寸也。中央に十八間四方に色砂を敷き馬を立つる所とす。爰を榜示ぎはと云ふ。中央の四・五間四方に縄を張り、是を小縄と云ふ。此の内に砂をもり、縄とひとしく高くせり。埓の坤の方に戸あり、犬塚の口と云ふ。異の方に戸あり、物陰の口と云ふ也。皆轅門にかた取り、南・東・西の埓の上にかざりの墓目の矢をさしはさむ。一方に十二桁あり。一桁毎に四つ結にして四所にかくれば十六筋也、十二桁に合せて百九十二筋也。三方合せ七十六筋也。是れ三手の犬追物の矢数となり、三手の内に上手・次の手・下の手の名あり。埓の外良の方に仮の役所を構へて日記の座とす。旧例は御座の次の間なれ共、御近所を恐れて如斯し。役所の内に箸一対金銀の箔だみ、五色の餅を二重宛高盛にして作り花をかざり、其の下に五色の粂を備ふ。箸の縁を金紙にて餝る。木を以て瓶子一双、金銀の箔を置き、松と鶴との絵を書き、蝶花形を以て口を包み、此の外硯・紙・幣なども爰に納む。役所の前餝の埓に戸を拵へたり。是は貴人高人出入のため也。埓の外に西の方に仮屋あり、射手装束の調所なり。
 
 
其の日巳の刻将軍家出御ありて桟敷の上段に入らせらる。中根壱岐守正盛・牧野佐渡守親成・久世大和守広之以下、近所小臣衆伺公す。御座の西次の間は、水戸中納言頼房・尾張宰相光義・紀伊宰相光貞・水戸中納言光圀、其の次彦根中将直孝・若狭少将忠勝・高松侍従頼重・前橋侍従忠清・河越侍従信綱・阿部豊後守忠秋・永井信濃守尚政・朽木民部種綱、其の次座は井伊靱負佐直滋・小笠原右近忠真・奥平美作守忠昌・本多内記政勝、御譜代御家人列座也。西の方南の端の桟敷には、越後少将秀就・備前少将光政・阿波侍従忠英・毛利甲斐守秀元・越前少将光通・因幡侍従光仲・出雲侍従直政・土佐侍従忠義、肥前侍従勝茂・安芸侍従光晟・伊賀侍従高次・肥後侍従光尚・美作侍従長綱・松平刑部頼元・同播磨守頼安・松平淡路守利次・織田出雲守信友・毛利和泉守光広・立花左近将監忠茂・京極山城守高国・有馬中務大輔忠郷・黒田右衛門佐長之等の諸大名、何れも列座せられけり。嶋津薩摩守は御座の簀子縁に於て蹲踞す。御座の東は御旗本の歴々也。其の外諸役人充満す。庭上には大番衆並に歩行衆警固なり。
 
 
彦根中将・若狭少将・前橋侍従・河越侍従・阿部豊後守等は、御前の御障子を開く。尾張・紀伊の四卿は御目見也。嶋津を召して、今日は天気晴れ、年来の本望相叶ひ可為満足と上意也。嶋津謹みて拝礼す。杉重・折肴等嶋津父子より上げらるゝ。犬追物可初由被仰出、嶋津承りて本座に直る。其の時に御譜代衆御目見あり、即ち御障子をさす。小笠原右近大夫を召して御挨拶に被召出。累代弓馬の法を相伝の家なれば也。阿部五郎三郎御腰物持ち伺公す。日記の執筆鳥帽子・素袍を着して、ちいさ刀にて埓の外より役所へ廻る。鍋屋伊賀と云ふ者也。熨斗目に水干を着し、末広の扇子を持ち、髪をさげ、金箔のはね元結にて薄げせう、かね黒く眉作りたる童子一一人相随ふ。是は幣を振る役人也。射手の奉行新納刑部・伊藤仁右衛門、烏帽子・素袍・小さ刀にオープンアクセス NDLJP:152て東西に徘徊す。装束にて侍四人、羽織・袴にて足軽二人相随ふ。竹杖ついて八人、ゑぼし・素袍・小さ刀にて四方の角に二人宛立つ、是はいぬかけ物と云ふ。又五人同装束にて戸の外に居る。是を犬放しの者と云ふ。此の五人はたすき懸けたり。又二人熨斗目に肩衣着し戸の外に居る。是は犬下知の者と云ふ。西南の仮屋より三手の射手三十六騎、しづと進んで出で、烏帽子・素袍を着し、小さ刀左の肩ぬぎ、弓籠手つけ弓を持ち、蟇目の矢一筋取添へ、又腰にも指す、二筋又は三筋也。右の手に竹の根鞭を持ち、左右の股に鹿の皮の行膝を付け、足に沓をはき、弓は重籐・三所籐矢は鷲の羽、馬の毛色は品々也。蚕に紅の大総かけ、嶋津舎弟五人は総に金糸を交へたり。思ひ思ひの鞍を置き、今日をはれと拵へければ、言語の及ぶ所にあらず。何れも小さ刀をさす。身は木にて作り、其の拵は金銀を尽す。検見は赤頭巾に素袍、小さ刀・末広・黒塗の鞭・浅黄の大総を懸けたり。喚次は烏帽子・素袍に、小さ刀・竹の根の鞭を持ち、両人共に弓・矢を帯せず。検見の者榜示際に至りひざまづき、御前へ向ひて拝礼す。其の時三十六騎の討手・喚次共に下馬して拝礼す。検見馬に乗る。三十六騎並によび次馬に乗る。辰巳と未申の二つの戸より十八騎宛埓の内へ入り、十二騎宛相分けて、南北西三ケ所に立て、南を上手と定め、西を次の手と定め、東を下の手と定め、騎毎に矢取の介添一人宛、烏帽子・素袍・小さ刀にて相随ふ。検見・よび次に権一人宛相随ふ。検見につゞき十二騎の上手相随ふ。
 
 
一番・二番の次第を定め、一番・三番・五番・七番・九番・十一番は馬の頭を南に向ふ。二番・四番・六番・八番・十番・十二番は馬の頭を東に向ふ。検見下知す。権は答へ、検見北面にして咒文を唱ふ。犬放つ者犬を縄きつて埒の内へ追入れ、よび次は射手の姓名を名乗り、童子は応諾して幣を振り、執筆の者は是を記す。色々様々の次第ありて犬を射、つかれたる犬は入替ふる。弓手・妻手・月影の矢・おしもぢり・弓手すかひ・妻手よこなもの・袖返し、種々様々の名あり。進退応対の式正ども有之て、落馬の者は是を謝するに法ありて其の儀を勤む。委細は春斎記録に詳なり。

 上手組犬七疋   中り矢三つ

  嶋津諸右衛門 一疋   嶋津四郎左衛門

  鎌田又七郎       種子嶋為兵衛 一疋

  上井采女 一疋     肝付半兵衛

  本多甚兵衛       福屋助右衛門

  嶋津弥市郎       嶋津又右衛門

  吉田長四郎       本多久左衛門

  検見嶋津十郎左衛門入道 喚次嶋津源右衛門

 次手組犬七疋   中り矢三つ

  嶋津市正        嶋津中務

  嶋津源助 二疋     山田弥九郎

  嶋津七兵衛       嶋津長門

  本多六左衛門      仁礼左近

  嶋津作左衛門      村上左京

  入来院石見       村上内記定 一疋

  検見嶋津又左衛門 喚次嶋津作太夫

 下手組犬七疋   中り矢四つ

  嶋津安芸 一疋     嶋津上野

  嶋津主計        伊勢兵部

  平田兵十郎       嶋津又次郎

  柏原弥太左衛門     菊池太左衛門

  種子嶋次郎右衛門二疋  嶋津縫殿 一疋

  嶋津助六        本多右機門

  検見嶋津又左衛門喚次嶋津佐太夫

三手の組合交畢、御簾をおろし奉る。重ねて嶋津を召して今一手と御所望也。畏りて罷立ち御簾を上げ奉る。

 射手組犬十疋   中り矢八つ

  嶋津市正 一疋     伊勢兵部

  種子嶋次郎右衛門一疋  嶋津七兵衛 一疋

  種子嶋為兵衛 一疋   嶋津又右衛門 一疋

  嶋津上野        嶋津主計 二疋

  村上内記        村上左京

  福屋助右衛門 一疋   嶋津安芸

  検見嶋津又左衛門 喚次吉田久兵衛

事畢りて日記の役者、幣振の童子退出、既に未の刻に及ぶ。近臣御簾を下す。西の障子を開き、水戸・尾張・紀伊のオープンアクセス NDLJP:153四卿御目見、今日の見物を謝せらる。御譜代御家人御目見、夫より御茶屋へ入御ありて御膳被召上。其の間に桟敷にて饗応一座也。御奉行松平出雲守相勤め、諸大名一座、安藤右京・井上河内守御奉行也。御譜代衆一座は大番頭御奉行也。御振舞過ぎて嶋津薩摩守を御前へ被召、御盃を被下、彦根中将・若狭少将・前橋侍従・河越侍従・阿部豊後守等伺公す。前橋侍従承り、貞宗の御脇指を薩摩守に被下。頂戴し奉り、国綱の御脇指を献上す。次に嶋津又三郎へ御盃を被下、国行の御腰物拝領す。光包の御脇指を献上す。前橋侍従御前へ奉る。嶋津父子拝礼して退出す。誠に末代の面目何事か是にしかんや。暫く有りて還御被成、阿部四郎五郎正之当番にて有之、犬追物の事仰出さる。是は正之並に子息左衛門正継に御弓の事を被仰付故とぞ聞えける。

 
 
松平式部大輔忠次は御本丸御留守也。松平越中守定綱は御本丸大手の御番也。内藤帯刀忠久は桜の御門に居らる。松平丹後守光重は西の丸の御番也。稲葉美濃守正利は二之御丸東照宮の御宮を守らしめ、水野監物忠善・松平若狭守康信は紅葉山の御仏殿を守護し、其の外所々御番所は夫々に被仰付相勤めけり。
 
 
同十六日嶋津薩摩守登城す。白書院へ出御ありて古老・執筆・近臣等伺公す。御太刀定利・御馬鞍置・銀二百枚・御呉服三十、太刀折紙也。前橋侍従披露にて献上す。御会釈ありて嶋津は退出す。子息又三郎御礼仕り、銀百枚・猩々緋十間献じ奉る。前橋侍従披露、太刀折紙引きて若狭守挨拶す。其の次に嶋津家老嶋津図書久道・新納右衛門久詮、其の次嶋津舎弟五人、嶋津安芸久雄・同市正忠弘・同源助久之・鎌田又七郎政由・伊勢兵部貞昭、次に又三郎家人町田勘解由久則・鎌田源左衛門政有、薩摩守家人一同に九人御目見仕る。夫より下段へ出御ありて、射手役人等四十一人御目見仕り、其の後何れも河越侍従・阿部豊後守柳の間へ出で、嶋津家老並に舎弟・役人等五拾人呼出し、御呉服を被下。六つ・四つ・三つ宛の高下あり。
 
 
同十二月二日に大納言様二之御丸の御殿へ出御被成、上段に御着座、彦根中将・若狭少将・前橋侍従・河越侍従・松平和泉守乗寿・酒井日向守忠能以下伺公す。嶋津出仕拝礼、御太刀長光・御馬鞍置・銀百枚・猩々緋十間之を進上す。今度犬追物台覧に備へ奉り忝き旨言上す。太刀折紙日向守披露し、嶋津退出す。又三郎罷出で、御太刀馬代金一枚・御呉服十献上あり。又其の後嶋津を召して御手づから熨斗を被下、頂戴の時に御腰物則光を拝領す。又嶋津より御脇指吉光を進上す。又三郎を召して御手づから熨斗を被下、御脇指兼光を被下、頂戴し、又三郎より御脇指安吉を進上す。夫より入御被成、嶋津家老並に兄弟衆役人等御目見ありて、御呉服被下、事畢る。犬追物と申す事は、神功皇后三韓を平らげ給ふより事起り、三浦介・上総介那須野に狐を狩りしより其の規式を学べり。鎌倉の柳営・京都の幕府興行せられ、三管領四職の家々に執行す。信長公・秀吉公の御時は乱逆なる故其の沙汰なし。其の法式は弓馬の家に伝受あり。今四海太平の御代の一端也とて、上下悦び奉る。
 
 
抑犬追物と申す事、人王十五代神功皇后三韓を討ち随へ給ふ時、新羅・百済・高麗の国主共皆降参致す時、我々は日本の犬となりて御国の御用に立つべしと御詫言申しけり。其の時大盤石の面に皇后御弓の筈にて、新羅国の王は日本の犬なりと御書付け御帰朝被成。其の時分は皇后の御胎内に十六代目の応神天皇やどります。御帰朝の刻日向の宮崎にて御誕生あり。是れ今の八幡大菩薩也。故に犬を異国の敵にかたどり、国家を治め給ふには此の事必ず執行す。清和天皇の御連枝なりし文徳天皇の御子孫能有と申す御人武将となり給ふ時、源の姓を被下。又清和の御子に貞純親王は常陸の太守也。其の子経基に源の姓を被下。源氏の家の元祖也。此の能有と経基の両家は武士の元祖なれば、武芸此の家に取伝る。此の家六代の末に当りて八幡太郎義家の御弟新羅三郎義光は、小笠原の元祖也。故に小笠原家に武芸今に伝へたり。近衛院の御宇久寿元年に、玉藻の前と云ふ女障碍をなすを、則ち那須野の狐となり、安倍の泰成が相するにまかせ、三浦介・上総介に射さしめらる。是れ犬追物の規式也。後堀川院貞応元年二月六日、鎌倉の御所南庭にて犬追物あり。其の後後土御門院寛止六年八月二十二日オープンアクセス NDLJP:154に、将軍慈照院殿犬追物取立て、細川右京大夫勝元馬場へ出御あり。今出川の義親卿御同道也。又牛追物と云ふ事、神功皇后の異国退治として御出船の時、備後のとまりに着岸あり。沖の方より大牛二つ来りて御船をくつがへさんとす。住吉大明神来りて牛を取りて海中へ投げらるゝ。此の所を牛まろばしと申しけり。後々は牛窓と云ひならはせり。犬追物の事皇后八幡の御縁起にあり。牛追物の事風土記に詳なり。安徳天皇寿永元年四月頼朝金洗沢の辺にて牛追物見物被成、下川辺庄司行平・和田小太郎義盛・小山田三郎・愛甲三郎など射たりける式掌あり。右犬追物の一章は御儒者春斎に被仰付、上意を以て撰ぜらるゝ其の記を有増書出す者也。
 
 
同年十月朔日より前田右近殿奥方の作事始る。先年大和守利孝殿の造営の屋形年ふりて夥敷破損す。其の暮に右近殿嫁娶の祝義あるべしとて、犬千代様より御入用修造被仰付。御奉行佃源太左衛門承り、御大工伊右衛門・江戸大工理兵衛召連れ指図を極め、化粧の間・長局・湯殿・雪隠・物置・二階・土蔵まで事新敷造作し、十一月晦日には戸障子張付絵様金具までかゞやく程に出来す。其の頃御上屋敷に御飼鳥の大まぜ籠並に惣廻りの駒よせ等、古きを退け新敷出来す。後藤木工左衛門・中村次郎右衛門御材木相調へて相渡す。暮へ懸けて事閙敷、森権太夫・青山織部勘定承届け、右近殿御人用相渡し事済みにけり。同暮に至りて右近殿より佃源太左衛門方へ、其の時の作事奉行山岡市兵衛を御使者として時服一重に肴を添へて被送。年寄られ、遠路の所毎日暁より暮へかけて通ひ被申、早速出来大悦の旨口上あり。佃に其の由申入るゝ所に、源太左衛門承り、此の拙者何方より何を請けたる事やある。夫は犬千代様へ御上げあれ。拙者は三十六俵より千石迄度々に被下、用にも無御座候。中納言様への御奉公こそ仕候へ、右近殿への奉公にて無御座由申して相返すべしと云ふ。いかに申しても御使者には左様被申間敷とて、留守の由申して使者を返し、進物取りて帰りけり。翌年の春二月利常公佃源太左衛門を被召、旧冬右近方より何か進物もらひけるやと、品川左門を以御尋の所に、加様加様とありの儘に申上ぐる。則ち御耳に立ち御機嫌能く、銀子十枚被下ければ、頂戴して帰宿致し、右近殿被下物を相返したる事今更仕合也とて、悦び限りなし。